1930年1月、日本評論社から刊行された小林多喜二(1903~1933)の長編小説。日本プロレタリア傑作選集の1冊。シリーズ装幀は恩地孝四郎(1891~1955)。
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- 不在地主
- 救援ニュースNo.18附録
2009年10月、私家版として刊行された尚泰二郎(1950~)の第7詩集。
ふと街で見かけた女性のひらひらしたスカート。おそらくジョーゼットの。絹の肌触り。布生地の感触。私の心の中に生起してきた不思議な感覚と感情。私は見るだけで、さわり心地の良い生地を触ってしまったのだ。実際に手でさわらなくても、視線がさわってしまう。これは何だろう。
私は私の視線を一瞥するだけで、そのものの声も、匂いも、見えないものまで分かってしまう。おそらく見るという行為の練磨が、私らをもっとより深い本質へと導く。見ることは網膜にただ対象をそのまま再現させることではない。見るという行為の中には視覚、嗅覚、聴覚、および触覚のあらゆる感覚が包含されている。すなわち視覚こそすべての感覚を呼び出すキーワードである。
視覚周辺のそれらの情報を即時に統合し、対象を瞬時に把握する。経験の蓄積とイメージの豊富さが対象のより立体的な表現を可能にする。
ただ残念ながら、視覚は物の表層しか描写できない。存在の深みまで降りて行くには、見るという行為の持続、すなわち凝視が重要になる。見るという行為を超越したとき、私は見えないものまで見ることができるのだ。そのとき初めて私は物の姿を見ることができるだろう。たとえば、眼を閉じたとき、初めて風のすべてを感じるように。
(「あとがき/見ることについて」より)
目次
Ⅰ
Ⅱ
Ⅲ
■エッセイ
現代詩の混迷とH氏賞の現在・
■あとがき
見ることについて