冬を追う雨 北村太郎詩集

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 1978年11月、思潮社から刊行された北村太郎の第7詩集。

 

目次

  • 冬を追う雨
  • 神経科医院のある坂 *
  • 神経科医院のある坂 * *
  • 夜の猫
  • トパーズの夢
  • 祝福 
  • 前夜
  • パスカル
  • 石原吉郎
  • 心心抄
  • いかがわしい二つの芸術
  • 青い馬
  • やがて、雪
  • 凍れる音楽
  • 三月堂
  • 唐招提寺千手観音立像
  • 波の目


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冬の当直 北村太郎詩集

 

 1972年12月、思潮社から刊行された北村太郎の第2詩集。ブック・デザインは高田修地。

 

 一九六六年十一月に『北村太郎詩集』を出したあと、一九七二年五月までに書いた二十二篇のなかから十五篇を選んで、この第二詩集を編集しました。怠けもののわたくしとしては、比較的たくさんの詩を、この期間に作ったと思います。でも、かろうじて詩集に入れられた、というのが幾篇かあって、恥ずかしいしだいです。
 2の終りの三篇「寂として」「暁ふかく」「春影百韻」は、歌仙、百韻のもじりで、もう、二度とふたたび、こういう形式の詩を作ろうとは思いません。ある意味で、こりごりもしましたし、楽しくもありました。
 3の「冬の当直」は、割合に愛着を持っている作品です。成功しているとは思いませんが、ずいぶん意気ごんで書きました。できればもう一度、ちょっと違った形で挑んでみたい気がします。
 この詩集に入れるに際して、多少、手を入れた作品があります。おことわりしておきます。
(「あとがき」より)


目次

  • 怒りの構造
  • ながい夜
  • K
  • ゲバルト
  • 問題は何ひとつ…

  • わたしの町
  • 冬の海
  • 牛とき職人の夜の歌
  • 寂として
  • 暁ふかく
  • 春影百韻

  • 寒露
  • 秋の週休日の夕方から夜へ
  • 小詩集
  •  1穀雨から夏至
  •  2幼年の日の記憶
  •  3真夏の沖で
  • 冬の当直


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改訳アウステルリッツ W・G・ゼーバルト

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 2012年7月、白水社から刊行されたW・G・ゼーバルト(1944~2001)の長篇小説。翻訳は鈴木仁子。2003年版の改訳。「ゼーバルト・コレクション」第6巻。

 

書評等
読書メーター
キリキリソテーにうってつけの日
DOUBLe HoUR
epiの十年千冊。
ゼーバルトのたくらみ(capriciu)


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闇の扉 上田周二

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 1957年9月、私家版として刊行された上田周二(1926~2011)の短篇集。1988年、沖積舎から復刊されている。序文は西脇順三郎

 

 これらの小説を読んだ人達はこの作者が自殺する前に書いたのかも知れないと思うかも知れない。それ程この短篇の世界は地上の人間の憂鬱を記念する文で私なら地獄への花籠としたい位いである。むさし野の雑木林が多摩を渡ってさがみ野へはいるとガムボージ色の藪へ変化する。少年が桑畑の中で将棋をさしたり、大山街道をそれて魚釣りに出る学校の先生などのいる風景になる。大学を出るとそういうところに先生をしている男がこうした短篇を書いている。「自分で出版することなどはつまらないからどこかきいてみようか」と私はこの小説マニアに言ってみたが「いやそれはむしろ自分の喜びとするところですから、かまわない。小説を書くことは自分の生命であって、全く小説というものを作る以外に人生の価値をみとめないのです」と答えられた。食わなくとも、家をつくらなくとも小説を印刷することが人生の目的である。町へ出で小説家となって生活したりすることは彼が望むところではない。これは小説が芸術となる本来の目的である。よく売れる小説や小説の大御所は必ずしも偉大な芸術で、偉大な小説家ではない。そういうことで自分で印刷することは商品にはなれないからやむ得ずそうすると思われては彼の場合は全く気の毒である。自分で書き自分で印刷することが彼にとって小説創作の全体の仕務である。彼が小説をつくるということは小説家となって名誉と生計をたてるということでなく、一つの近代病理学的精神病として一つの「小説行為」とでもいうべきことをやっているにすぎない。
 彼は浅草に生れ大学教育を受け、いつの時か「小説」という近代病にかかっていた。川を渡つダンゴをたべたこともなく、ほうずきをしゃぶってみたこともない近代人である。これ等の短篇は相模野に起った「浅草の憂鬱」であるという点でも注目すべき人間の歴史である。
(「序文/西脇順三郎」より)

 

目次

序文 西脇順三郎

  • 迂回
  • 潜行の時
  • 闇の扉
  • 片隅
  • 光と影
  • 路傍の男
  • アカシヤ

あとがき

 

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あさくさの子供 長谷健

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 1940年1月、改造社から刊行された長谷健(1904~1957)の長篇小説。第9回芥川賞受賞作品。装幀は林鶴雄。

 

目次

  • 星子の章
  • 桂太の章
  • 律子と欽彌の章


関連リンク

芥川賞受賞作品を読む日々

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詩について 庄司直人詩集

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 1960年11月、文芸東北新社から刊行された庄司直人(1921~1999)の長篇詩集。

 

「詩とは何か」ということは、詩を書きはじめて以来二十年いつも内部から問いかけられていることである。生活感情がそのような設問にまつわられているならばしたがって「詩とは何か」という詩があらわれる。も当然なのだろう。
 がしかし「詩とは何か」ということが直接作品の外部にまであらわれるというのは、やはり問題があるのではないか。常識的にいえばこの設問に対しての答は造型された作品ではなくて詩論として論理的に把握された過程もしくは結論の筈なのである。文章になるにしろならないにしろ頭の中でそのように処理されるのが普通である。創作活動の中でのこのようないわば異常――つまり詩論になる筈のものが詩として造型されるのはなぜなのか、又それは何を意味するのだろうか。私の作品の歴史の中にそのような作品が点在するならば、その作品の成立した時は私の創作活動の中での一つの事件を意味するにちがいない。
 事実私の作品の中に『詩について』という題乃至はテーマの詩が間歌的にあらわれる。創作が正しく内的必然に立つかぎりこれは無視することは出来ない。これらの作品をひろいあつめ創作時期にしたがって並べてみるならば私自身の内的な歴史が相当に直接的なかたちで露呈してくるにちがいない。どこでどのように屈折し挫折し或いは生長し発展したのか自らかたるにちがいない。
 つまり(一)『詩について』という詩型の作品の成立するメカニズム、その作品系列がしめす精神史の様相の二点を明らかにしたいために、いゝかえれば私の創作過程そのものにある特殊性と、私の精神史をとうしてアプローチしようとする普遍的な人間の精神の発達の様相をあきらかにしたいために、自らのため何らかの役にたつものと考えてこの詩集『詩について』をまとめてみた。逆年順に編輯したがこれは専ら自分の便利のためであり、読者には迷惑なことかもしれない。お許しいたゞきたい。
(「あとがき」より)


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