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純粋桃色大衆――空想への迷走 鈴木志郎康

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1970年、三一書房から発行された鈴木志郎康の第一評論集。装幀は鈴木悦子夫人。

 ここに集めた文章は、私が一九六三年から書いたものの殆どである。その体部分は一九六八年六九年に書いた。私は詩を書く一方で文章を書いて来たわけだが、考えの焦点が定まらないまま、文章を書くことによって自分の生命を何とかして活字の中に実現しようとして来たといえる。そのとき、現実にあって私の言葉の対象となったものは、自分の身辺のこと、映画、マンガ、芝居であった。私の言葉が向っているところには、働いて生活を支えていることに使われている自分の身体を越えて、何らかの虚構の身体を実現すること、つまり自分の表現を実現することであった。その作業は今も続けられている。そして様々な現実的な契機にあって、これらの文章は生れたのである。
 今ここにそれらの文章をまとめるに当って、大きく三つに区分けしてみた。Ⅰの部分に入れたのは、身体と言葉との関係を考えているうちに、所有ということに向っていく文章であり、Ⅱの部分には、先ず自分の身体のありかを意識して行く文章を入れ、Ⅳの部分には自らの虚構としての身体の実現を探る文章を入れた。しかし、どの文章も私の思考の不透明さによって、いずれも明確な印象を与える体のものではないように思える。この区分けは私の現在の考え方の道筋を自分に示しているようなことなのかもしれない。
 表題の「純粋桃色大衆」というのは、私が活字によって実現しようとしている私自身の虚構の身体のことである。私は自分の身体が労役のためだけにあるというのには耐えられないで、何とかして自分の思いのままになる身体を、全くの偽物でもよいから持ちたいと強く願望しているのである。そして、その願望から生れた、私自身の虚構の身体をやがては現実のものにしたいと考えるのである。その際、まず私自身のその願望をはっきりとさせること、というのが「極私」という私の考える道筋なのである。私自身は極めて個別的な存在だけれど、言葉によって何処か全体へ通じるものになるだろうと思っている。考えの手掛かりにしてもらえれば幸いです。(「あとがき」より)

 

目次

Ⅰ 極私的所有を越えて

まず、虚構の中で母親を殺せ
躍々と握手して取る極私的方向
私的な極小資産者の精算は人々が詩と雑踏を潜る
『神々の深き欲望』を越えて極私的閉鎖越え
私的夜行列車は暁を迎えて

Ⅱ 極私的身体を越えて
ヒロシマの生命
身体的思考――増村保造摑み
私的狂乱熱狂願望の行方
自分を自分で売って脱出する女たち――新藤兼人『強虫男と弱虫女』
私的に岡惚れて、岡焼き――唐十郎摑み
皮膚の磁場を突きぬけて
私的群衆潜りは強姦者無名の生命が勃起に終る

Ⅲ 純粋桃色大衆は路上の血河で又は希望

Ⅳ 極私的表現を越えて純粋桃色大衆へ
桃色軟体天秤は青空を仰いで――極私的詩観
カーラジオを越えて、庄野潤三を越えて
浴室にて鰐が
純粋桃色大衆を孕む暗黒子宮は形成されて――唐十郎土方巽つげ義春
脱意識的「峠の犬」は虚構をくわえて
つげ義春の魔術
つげ義春摑み、エロスを開く道に向って
ブニュエル摑み――日常を砲撃する映像に極私的接近
私的虚構的J・L・ゴダールは純白の方形を走る
皮膚を越えた血のめぐりに向って――『ウィークエンド』
日常性の陥穽

 

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