1980年10月、混沌社から刊行された小松弘愛(1934~)の第三詩集(写真はカバー欠)。挿画は片木太郎、装幀は片岡文雄、写植は大家正志。第30回H氏賞受賞。
「狂泉物語」二〇編に登場する「私」とは何者だろう。「私」の思考や行為が、現実の私と重なっていることもあるが、そうでない場合も多い。これは、個々の作品における、仮構性のことを言っているのではない。
私の周囲にはさまざまな人間がいる。苦しんでいる人間も多い。私は、その苦しみを共有することは、まずできない。他人の苦しみを自分の苦しみとして、「共苦」の域にまで自らを追い込むことはむつかしい。
しかし、時には、他人の不幸を、あるいあh他人に加えられる迫害を、自分のそれとして考えざるを得ない、行動せざるを得ない、という場に立たされることがある。私が、他人の事件をも、「私」という一人称で書いたのは、こういう時である。書きすすめながら、私の問題は、当然のことながら「私」がでおこまで他者に近づくことができるか、ということであった。
――しかし、結局は、他者に仮託しながら、自分のなかの何かを執拗に語る、ということになっているように思われる。これは、自然のなりゆきであり、。わかりきったことかもしれない。「狂泉物語」の「私」とは、すべて私のことである。
それにしても、この二〇編は、詩と呼ばれるものになっているのだろうか。いくつかの散文詩編も読んでみたが、私の作品が、そこに述べられている「詩」に該当するかどうか、私には心もとない。「狂泉物語」――これは、「狂泉」という「私」の世界へ収斂されてゆく、一つの物語群のようなものであろう。
なお、収録作品は「兆」「開花期」「作品」「銀河地帯」「日本詩人」「高知新聞」等の誌紙に発表したものである。(「後記」より)
目次
- 鳥
- ナフタリン
- 調教
- 希望
- 蓮根
- 伝説
- 処女水
- 掟
- 桜
- 車輪
- 分類
- 踏絵
- 神話
- 雨期
- 焼却炉
- 首
- ドライフラワー
- L釘
- 旗
- 狂泉