1976年11月、思潮社から刊行された山下千江の第2、第3詩集。
見知らぬ人
「見知らぬ人」は「印象牧場」以来十年あまりの作品を集めました私の第二詩集です。
短くて甘くて、私自身にはなつかしい若い日の形見のような作品も多く、ずいぶん考えました末、捨てがたかったものは、やはり入れることにしました。
その時は、それでも精一杯気負って自分の状況を歌いあげたつもりでしたのに、今みると、やはりこれはもっと早くまとめて、若い日に恥をかいてしまうべきであったと思います。(「あとがき」より)
目次
- いつもみえない空を
- 歩み
- みしらぬ人
- ハムのうた
- もくれん
- しなやかな きのうのために
- 新樹
- きさらぎ
- 回心
- 風にのる一粒のたるほ麦
- 秋
- 五月の空の下で
- 断層
- あじさい
- 三十娘
- 新しいもののために
- 芭蕉
- 蕪村
- お菓子の皿
- かきつばた
- 水辺
- 帰ってきた
- 松との対話
- 無音歌
- 暦
- 雪国
- 羞恥
- インドの少女に
- イネ
- 古代仄韻図
- 青い女
ものいわぬ人
母は昭和三十八年一月十三日午前十一時頃、掘りごたつから出ようとして倒れ、そのまま脳血栓の後の脳軟化症のため、すべての運動神経がマヒし、物も言えず、手足も不自由なまま病床にあって、昭和四十年一月十七日早晩、つまり満二年と四日目に亡くなりました。
私はその頃、母一人娘一人の生活でしたので、心も体も経済的にも、すべてに重い重い母を背負いました、私にとっては、今までの生涯で、一番大きなヤマ場であったと思います。生れてはじめて、一人で越えた難所でした。母の年令と病名を言うと、どの病院もベットがないと言いました。空いているのは一日五千円と一万円の特別室ばかりです。
ですから、そんなに長く入院しているわけにはいきません。重病人の看護というのは糞尿との戦のようなものです。毎朝括約筋のマヒした母の肛門を開いて、便をかき出し、おむつを朝六時前に第一回を洗い上げ、病人食をつくり、家計簿をやりくりし、とめどな医療費におびえ、私自身、心配と疲労で倒れ、盲腸炎で入院し、留守中の看護婦さんや家政婦さんに気を遣い――など、思い出せばきりのないほど多難な二年間でした。
その間、私は決して親孝行な娘ではなく、私の母は全身不随の実母を十三年もみとって愚痴一つ洩らさなかったのに引きかえ、私はつらいつらいと言い通しました。
また私は疲れの為にいやな顔をしてため息をついたり、病人はどんなにつらかったかと今になれば本当に悪かったと思います。
でもその当時は、あまりのつらさに「母」というものに就いてきびしい批判を感じました。親が子を産むことは当人の意志が働くけれど、子供にとって生れ落ちるとから存在している両親や兄弟姉妹というものは、いわば天災(?)のようなものである、などと日記に書いています。だから子供が一定の年令に達するまで親の責任はあっても、子供がそれを恩にきる必要はなく、一人前になったら独立し、老後の親をみることは子供だからという「義務」ではなく、人間としての「愛情の行為」であるはずなのだ――というわけで、私は、母をやがて見送る日が過ぎたら、まだ生きている日本の家族制度や、親と子、特に「母」というものの在り方についてきびしく追及してみようと考えていました。
そんなふうにして過ごすうちに、いよいよ大詰めの四十年十二月頃から、どうしたことが急に理屈ぬきで母の生涯が可哀そうで仕方がなくなりました。
母を見送って一年たった時、母のことを何か書くどころか、苦しかったことは皆忘れて、とにかく一生懸命に生きてきた母の姿ばかりが目に浮かび、唯々悲しく、可哀想で、はずかしいことですが、以前の意気込みはどこへやら、何も手につかないままボンヤリとまた一年を過してしまいました。今年の一月十七日三回忌、満二年を経ても、あんまり心はしっかりせず、我ながらその不甲斐なさに愛想のつきた形です。
しかし、考えてみれば、私の母は決して学識が深いとか、賢母とか慈母とかいうようりは、むしろ、やみくもに娘を愛し、老いては全身の重みでもたれかかってきたごく普通の昔風な愚母でありました。
愚母を弔うには豚女こそふさわしいかもしれません。私は身の程も忘れておこがましくも考えつづけてきたいろいろの問題を、今はもうこだわりなく一時おあずけにして、愚かな母の愚かな娘としてごくそのままの形で、この「詩集」というにはあまりに幼稚な一本を編み、不人情な娘心のお詫びのしるしに亡母に捧げたいと思います。(「あとがき」より)
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