流謫の遠近(るたくのおちこち) 城尾徳昭詩集

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 1985年4月、審美社から刊行された城尾德昭の第4詩集。カバー陶板は狩野炎立。解説は野間宏(1915~1991)と清水哲男(1938~)。

 

 一九六〇年代の三十代に立てつづけに三冊の詩集を出した。やむにやまれぬ気持ちが食細胞のように、物象を捉え、現象を追い求め、現実を新しく極面化するという一連の言語操作を成り立たしめているとすれば、まこと「詩の言葉」というものは稀有のものである。こういう立脚点に立てば、詩の衰運というものを安易に信ずる訳にはいかない。
 むしろ現代詩の領域は拡がりをましつつあるのだが、私が詩集の上梓を断念しきれなかったのは言葉を解体させ、再構成させる方向でなく、言葉の前に解体している多くの作品を見るつらさに耐えられないからである。
 『流調の遠近』はこの冬、坐骨神経痛の再発に苦しまされた一人の詩人が長年たどった年代史であり、戦後四十年目に問う遺言であるといってよかろう。
 私は三十五年ぶりに一つの事実を公開することに決めた。たとえ何人の友人を失い、自分を不利にしようと私の口を自ら永遠に封じてはならないと心に言い聞かせた。「流謫」には流謫の発端があろうし、詩人ならば墓の彼方に持っていく秘密を出来るだけ少くしなければと誓った。
 私の父は故德次郎。米穀商。母は故サツキ。一八六三(文久三)年京都蛤御門の変の責めをとらされ、切腹死させられた家老国司信濃の侍医山田文道の孫。
 それは戦後五年目の春の出来事である。現山口県宇部高校の当時の学校長平中十郎は私が人生で一度、しかも十五分間しか会わなかった男である。傾聴して欲しい。脊髄カリエスという大病の床から這い出た、か弱い、暖い配慮を必要とする若者に、厳しい学区制の敷かれていた地方の学校行政の長が何と言ったと思う?
 「赤や黒を再入学させる訳にはいかない」
 復学阻止の宣言は下されたのだ。思想活動もしていなかった学業半ばの者を根拠もなしに屠り去った怖しい意図。平中は私の進路に火を放ち、父の歿後三年にして私の一族に巣喰うカインの末裔どもによって後ろの橋は切り落された。これでは小人物たちの一番恐れていた大学者の誕生はあり得ず、中原中也山頭火の石碑を立てることで山口の人士が生前の彼等にとった態度が忘れられていいのだろうか。
 個人の幸、不幸の大小ではなく、私どもの生全体を破壊するこの半世紀間の記憶を失うことなく、殺戮の体系に抗する人間の歴史への愛を喚び覚まして欲しい。
 女優の山之内滋美さんと共に祝った文学上の先達野間宏兄は書簡の掲載を許され、酒友清水哲男氏は俊逸なクリテイクを下さった。それに多年善意を惜しまれなかった藤井脩三氏にもお世話になった。記して謝意を表したい。
(「あとがき/この殺戮の時代に抗して」より) 

 

目次

  • 繰言
  • 酉の市
  • 核付き終りの詩篇
  • 沖縄に寄せる哀歌
  • 至近距離
  • メッセージ
  • 沖縄・挽歌より
  • 母の死
  • '71年原宿・陰画
  • 新宿・女・夜
  • 目黒界隈――ある男の眺め
  • 小さな墓標銘
  • 二月の祝婚歌
  • ヒロシマから世界へ
  • 霊廟を撃つ――日光東照宮
  • 壁面

古希に想う 野間宏
城尾徳昭詩集『流謫の遠近』のために 清水哲男
あとがき この殺戮の時代に抗して

 

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