別れの準備 藤本直規詩集

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 1988年10月、花神社から刊行された藤本直規(1952~)の第3詩集。第39回H氏賞受賞。近年は認知症関係の著作が多い。「自動改札機」は黒瀬勝巳への悼詩。

 

 なんとなく楽天的に生きてきたな、という思いが今更ながらしているが、学問の蓄積ができない凡愚のこれまでのことは、重々口惜しく諦めながらの経過ではあった。楽天的だから、詩を書こうと思う人には誰彼となく会ってもきたが、生れつき頭がいい人なんだなとつくづく思ったのが二人いる。
 ひとりは、偶然近所に住むようになった水沼靖夫君だった。東レの研究室に勤めていたが、東工大の出身で、化学畑らしい緻密な頭脳の持ち主だった。研究室の仕事のように詩を書きつづけ、詩集『遠心』はH氏賞の最有力候補ともなったが、肺ガンで三年前に急逝した。
 もうひとりが、藤本直規君である。京大医学部の学生のころからの知りあいだが、医師の資格を得てから、大学院に行き、現在は、私の住む守山市の県立成人病センターの脳神経内科の医師である。あんな難関の学部をすらすらと出て、なお、詩を書いたりギターを弾いたりしていた。
 おもしろいことに水沼君も藤本君もへんな詩を書いていた。水沼君のは古風な抒情詩で、藤本君のは、いわば破片だった。主体がころころかわって欲望ばかりが妙な突起をみせていた。それでも十年前の詩集『解体へ』には、一篇だけ完璧な秩序をもった作品があった。巻頭の作品「子供たちへ」である。

  死人(しびと)が笑顔で手を振る
  僕はやさしい
  足元には十数匹の猫が喉を鳴らすし
  背中で三匹の蝙蝠(こうもり)が瞳をうるませている

  美和はやさしい 美和の前で
  僕はキャベツのように眠れるのだ
  愛情には敏感だが 少しばかり不器用なので
  僕は古典を愛しむように美和を
  学び始めている おおこんなにも
  僕たちはやさしい

  そんな僕たちが愛し合えば
  子供が生まれる 女の子が生まれる
  髪は少し長めがいい 化粧も知らずに
  彼女は 三歳で激しい恋に陥ち
  五歳で 黒人(ブラック)サムと結ばれる
  湿っぽいブルースも歌わずに二人は
  世界中の計算高い恋人たちに衝撃を与えるだろう

  子供が生まれる 男の子が生まれる
  彼は五歳で拳闘家(ボクサー)になり
  七歳で僕たちを打ち倒す
  その頃世界は飢えているから
  彼は最もハングリーな拳闘家になる

  おおそして
  やさしい僕たちのやさしい子供たちは
  鹿のような瞳に怒りをいっぱいためて
  大きな木槌で
  世界中の広場という広場に
  警鐘を響かせるだろう

 これを完璧な秩序と呼ぶには理由がある。この詩集と東川絹子さんの詩集『長針だけの時計』の出版のお祝いを、当時飲み仲間の寄りあっていたパブでひらいた。このふたつの詩集は、出版企画に渇望をもちはじめた頃の黒瀬勝巳君の制作によるものだった。彼の後の自殺のことはここでは措くとして、祝賀会の大方の称賛は、東川さんの水際だった不条理の世界の構築にむけられていた。
 その時求められて、ぼそぼそ喋ったときの雰囲気を何となくおぼえているのだが、私は
「別に東川さんの作品の好評に水をさすつもりはないが、ミショウやカフカ以来、私たちは不条理の世界に慣れきってしまっているんじゃないか。あるパターンにおいて巧緻になっていくことが、詩の技術だとしたら、詩というのは一体何だろう。
  藤本君の作品は未熟だけれども、まだいかなるパターンも彼を捉えていない。言葉が見知らぬパンチのように、ひゅっひゅっと迫るのを感じる。」

 というような喋りかたをしていた。そのとき私の隣には美貌の女性が坐っていて、マイクを支えながら、私が詩集のページをめくるのを助けてくれていた。後の藤本夫人真理子さんである。「子供たちへ」という作品の未来構想性は、彼のリビドーの発動のままに、具体的な秩序となり、二人の男の子が生まれた。今ちょうど六歳と三歳ではないかしら。年に一、二度私の家に現われて、拳闘家(ボクサー)ぶりを発揮してくれる。
 右に引いた人たち、故水沼靖夫君も東川絹子さんも、藤本夫妻も、東京の「言葉」の会のメンバーである。水沼君は、東京へ転勤させられた際に、私が推薦したが、藤本夫妻は元同人の内田恒氏の推薦による。ご病気中の澤村光博氏やシュールレアリスムの研究で第一人者の鶴岡善久氏、小柳玲子さん等、屈強の詩人でも論者でもある人たちの集りである。
 いつ頃からか、「言葉」を手にすると、指が自然に動いて小柳玲子さんの「石原吉郎論」と藤本直規君の作品を確認するようになった。藤本君の作品へのきっかけははっきりしている。「別れの準備」を読んでからだ。ファイターとしての彼のヒットは単発だったのに、これは上下左右に打ちこんでくる。やや芝居がかっているが、ヒットアンドアウエイの際の妙な艶っぽいしなもある。
 今読み直してみると、どうも作品の導入部にひかれたらしい。

  最終電車に乗って 終着駅に着く
  乗務員は帽子を小脇にかかえ
  開いている窓をおろして歩く
  吊り下げ広告はあんな風にはずすのか
  広告のない電車は
  女が去った後の四畳半一間のアパートのようだ
  毎日乗っているのに
  知らないことが多いな 世の中には
  サルトルボーボワールにだって
  それぞれ秘めた恋はあった
  と サルトルの死後ボーボワールは語った
  突然天井の灯りが消された
  疾走する車の前照燈(ヘッドライト)が車内を斜めに嘗めてゆく
  窓枠が影となって床に伸びる
  博物館の恐龍のあばら骨のように
  骨格だけは残るのだな 恐龍も電車も
  長い時を越えて
  あばら骨が抱いているのは何だろう?
  などと考えていたら
  ついに駅乗務員室の灯りも消えた
  改札口に鍵もかけられた
  駅が無人になる

 あれ、やけにうまくなったな、というのが即座な印象である。自分が下車したあと、霊的な目だけが残って、執拗な、なめるようなパンをしていく。影の動きなどもみごとだが、電車も駅もぶるっとひとふるえして、あとしいんとなっていく沈黙が、永遠からみた一瞬のように鮮かにとらえられている。
 多分、ひとが詩の作者を意識するのは、こんな機会だろう。私は早くから家族ぐるみ藤本君との知りあいだったが、こちらから積極的になったのは、あの詩以来だ。
 この詩集は「死者の部屋から帰った夜に」や「綿をつめる」という刺激的な作品からはじめられる。生者も死者も管腔だという認識には、北村太郎氏という粋な先達がいて、私なども、かなわないなという思いで、いつかそらんじてしまった詩句をひきずっている。「雨」の末尾近いその詩行、

  何によって、
  何のためにわれわれは管のごとき存在であるのか。
  橋のしたのブロンドのながれ、
  すべてはながれ、
  われわれの腸に死はながれる。

 それから藤本君の作品に目を移してみるとかって私たちに衝撃をあたえた甘美でニヒルな抒情が、極めて当然のように変質してしまっていることに気づかざるを得ない。死者の穴という穴に綿をつめるのは、医者ならではのニヒリズムであるが、医者にあるまじき、本能的で冒潰的な自分に対するシニシズムがやたら顔をだそうとする。それは生きている管腔の帯びる含羞とでもいうべきものか。
 こういう含羞のあらわしかたに一言ふれようと思ったのが、この文の目的で、あとはみな蛇足である。
 蛇足ついでに言えば、やはり含羞の男だった黒瀬勝巳君への悼詩「自動改札機」のは他にいいかえようがない。痛切だ。京都の一時期の私たち飲み仲間の無念を背負っている。
(「跋/大野新」より)

 


目次

  • 死者の部屋から帰った夜に
  • 綿をつめる
  • 夜中に爪を切る
  • 骨を噛む
  • 胡桃割り
  • 午前零時
  • 別れの準備
  • 自動改札機
  • 帰路
  • 骨が腐る
  • 夢の残骸
  • 頭突き

  • アダムの顎骨
  • 情死
  • ETよ こんにちは
  • 非行
  • 太陽が昇りきるまで
  • 夜の海にて
  • パン焼き職人
  • 自転車に対する愛
  • 自動販売

跋 大野新


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