岸の倫理 李沂東詩集

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 1988年10月、(土橋治重/呉美代の)風社から刊行された李沂東の第3詩集。版画は崔熺秀。

 

そろそろ詩集を出さなければと思っていたが、なかなか気が乗らなかった。というのは日本の繁栄を象徴するかのように詩集があいも切らず年中、有名無名を問わず出版されているからである。この外日本現代詩集なるものも権威があるないにかかわらず色々と出版されていていささか食傷していた為でもある。
そんな矢先土橋治重先輩からRIKIさん詩集を出さないかね、序文を書いてもいいという有難い話が昨年あった。そんな事から私も第三詩集をやはり一つの区切りとしてやっと決心した次第である。
私は数少ない作品の中からなるべく自分の体質に近い作品を選んだつもりであるが、どうしてもやり切れない気持から世論に再び訴える一気持で入れたKAL航空事件のような作品もある。
自分がどんな体質でどんな性格の人間か自分にはよくわからないが、若しこれから示す私の経歴が作品に良く出てくるものがあるとすれば望外の嬉びである。
私には宿命か迎命というか六つの名前がある。大国主命や私の祖先である高麗末期の宰相で有名な詞家でもあった李益済公なら話は別であるが、単なる百姓の伜である。私の幼名には愛称名と渾名の二つがあった。長い間男子が生まれなかった為である。
もう今では生まれ古里に帰っても呼ぶ人達は死んだり、目上の二人の従兄弟達でさえにも呼れないが、愛称名で呼んでいた九州の伯母が五年前に死んでからはもう使う人はいない。
私は五才で静岡県興津町の在に来たが、その夜招請された木下家から父の通称昨をとって栗村俊雄と名付けられた。早速私達は着物を着せられ、母は日本髪を結わされた。
そしてその名はずっとそれから創氏改名の法令で正式に岩本俊雄となった敗戦直前の昭和十七年のころまで使われた。それ故それからはずっと今日までこの名を片方では使っている。
ところが詩を書くようになり、ペンネームを付けようと思って高崎謹平に相談すると、彼は儒者の祖父が生まれた時に命名した李沂東がいいではないかと言はれ、うんそうだ、そうだと言って生れた時の名をそれから公然と使うようになった。
言ってみれば冷や飯をずっと喰って来た名で、表に出ることはなく、転校の時とか戸籍を見る時ぐらいしか見ることのない名で、実用されたことは一度もなかいた。
ところが後年自分のルーツを探り、追体験をしている内に本家にある族譜(系図)を見ると、私には系図上にもう一つの名があることがわかった。私は慶州李氏益済派の三九世で系図には李相洙となっておりそれが実は本名で「字」は李沂東となっていた。「行列」宇は父が雨の字で私は上の字が相で四〇代の子の行列字は下の字が煕という具合であった。この族譜の名は全く使われないかと言うと、そうでもなくやがて大切な事が良くわかった。何処かで同じ家門の人に出逢うとかならず「行列」は何字かと聞き、それから年令などはかまわずに上下を正し、字格が下の者から先きに改めて礼を述べるのである。韓国では自分の行列字を知らない者は恥になる。
さて或時ふと私が自分の周囲を見廻すと、いつの間にか日本人の親戚が八〇パーセントになっていることに気がついた。そんな事こんな事から私はナチュラリレーショソ(Naturalization)に踏み切った。他には如何なる理由もない。最近所用があって念の為に古い韓国の戸籍謄本を見ると「朝鮮姓名復旧法により姓復旧、西紀一九四六年十二月十四日改訂」となっていて驚いた。つまり終戦で解放独立したにもかかわらず、法的には昭和二十一年の終りまで日本人名の岩本後雄であった訳である。韓国人が。私は私のどの名を人が呼ぶかによって瞬間的に、機械的に時代を分け、先輩知人友人学友を分類し察知し、大きくは文学関係者と生活環境の新旧者を知る。
凡そ後記らしくない後記を書かないつもりでいたのに書いてしまったが詩集を反省するに、もっと私は私という者を問い詰るべきでなかったかと思っている。

(「後記」より)

 

目次

  • 寒村の倫理
  • 雪の高野町
  • 部族の葬列
  • 麦畑
  • 風鈴
  • 百日紅
  • KAL四六八号便
  • 他人の市
  • 対岸の摂理
  • 鏡台
  • 朱い柿
  • 橋の上
  • 望郷祭
  • 供花
  • 無為
  • 岸の倫理
  • 詩人と雀
  • 草墳
  • 渇望
  • ポプラの生態
  • その時君達は
  • 遥かなディスタンス

後記


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