2009年10月、思潮社から刊行された山田兼士(1953~)の第1詩集。題字は谷川俊太郎。
詩集を出すことは一生ないだろうと思っていました。一九七〇年代に詩の豊饒に出会い、あらゆる詩が書かれていることに驚嘆し、その後〈詩論〉を志してから、詩人の鏡に(鑑ではなく)なることを自らの使命と念じてきたからです。批評に必要な客観性を獲得するため自分をできるかぎり「棚の上」に置いておくこと。そうでなければ普遍的な〈詩論〉などあり得ない、と。
三十代前半に就任した大学では詩の実作指導も担当していますが、詩を書く若者たちに外側からの助言を続けながら、自らは書かないという姿勢を貫いてきました。添削ではなく推敲のお手伝い、というのは今も変わらない基本方針です。
そうした詩への態度は四十代になってもあまり変わりませんでした。が、大切な人を次々と失い、自分の胃まで(三分の二ですが)失った四十代半ばになって、少しずつ生身の詩人への興味が強くなっていきました。過去の詩人を研究するだけなら〈棚の上〉に置いていられた〈私)というものを、今を生きる詩人たちとの交流を深めるうちに、とうとう〈棚下ろし〉せざるを得なくなったのが、ちょうど五十路に入った頃でした。
ここに集めた作品は、いずれもこの六年ほどの間に「八島賢太」名で詩誌などに発表したものです。最初に、この辺でそろそろ詩も書いてみれば、と声をかけて下さったのは、詩誌『coto』を主宰するセンナヨオコさんと安田有さんでした。同人でもない私に毎号作品を発表する場を与えて下さったお二人に、まず感謝しなければなりません。近現代の詩人たちとの対話を(詩論詩)として成立させる、という考えはこの時に浮かんだものです。
とはいえ、〈詩〉を書かないことを〈詩論〉の前提にしてきたからには、簡単に〈詩人〉を称することはできません。そこで、〈詩論〉を〈詩〉へと架橋するためのキャラクターとして、本名のアナグラムから濁点を抜いた〈八島賢太〉が誕生しました。今回の出版にあたって、ぎりぎりまで迷った末に、本名で出すことにしたのは、〈詩集〉が成立した時点で八島の役割は終わった、と判断したためです。(「あとがき」より)
目次
I
- 木曽路の詩人たち二〇〇三年秋
- 八尾の萩原朔太郎 一九三六年夏
- クリスタ長堀のポール・ヴェルレーヌ 一八九四/二〇〇三年秋
Ⅱ
Ⅲ
- マリ・オン・ザ・ブリッジ
- 精霊ホテルあるいは詩人の部屋 ボードレール/ロートレアモン/リルケ
- 廃市のオルフエたち ヴァーチャル連詩1865―2007
- 他者の物語は その日のイジドール・デュカス
- ルイーズとシャン 一九四六年パリ近郊
- 石蹴りの少女と葦の地方 昭和十一年五月、大阪湾沿岸
Ⅳ
- 十三郎幻想 一九五四年夏
- 小野十三郎の手紙 一九六五年五月一日、大阪市阿倍野区阪南町
- 正午のサイレンは
- 中也と朔太郎 ヴァーチャル対詩1937
- 中也週間2007 ウェブ日記より 73
- 師走のカトラン2007 ウェブ日記より
Ⅴ
- 9ポ明朝の乳を買いに
- 一九七〇年のこんにちは
- 詩とはなにか『転位のための十篇』との対話
- 長野隆の墓
- 古墳めぐり『河内幻視行』の余白に
- 遠い百合への旅 追悼・小川国夫
あとがき
書評等
『噤みの午後』日記