田村俊子とわたし 丸岡秀子

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 1977年7月、ドメス出版から刊行された丸岡秀子(1903~1990)による田村俊子(1884~1945)評伝。装幀・題字は粟津潔(1929~2009)。中央公論版(1973)を増補改訂したもの。

 

 考えてみれば、俊子を簡単に語ることはとてもできない。わたしの知っている間じゅうの、からみ合い、縺れ、入りくんだ人間関係のなかに、彼女は苦悶し、すでに終りに近づく生を吐き出していたからである。また、わたしの場合、そのつきあいは、外廊下での立ち話で済まなく、深く部屋のなかに入りこんでいたからでも在った。なぜ、そんなに入りこんでしまったのか。それは自分にないものを持っている異質のもの同士が、たがいに強く惹き合ったのかと考えてみることもある。
 俊子は、わたしが農村調査から戻ると、ご馳走をしてくれながら、わたしに報告させた。そして、あなたは忍従の強さよ、わたしは、解放された強さよ、といっては、よく笑った。同じ頑固さでも、片方は解放されたものの強さ、他方は忍従の強さ、言ってみれば、一方は飛翔し、他方は地を這う、そんな異質同士の吸引が、たがいの間柄とし指したのだと思う。だが、そう考えてみても、それだけでないものが残る。それは何だったのか。
 人見知りが強く、人づきあいはまずく、気を張るとすぐ疲れ、簡単に心を開けない質のわたしが、あのように抵抗感をもたないで、ずかずかとなぜ入りこめたのか。わたしにそれを許した田村俊子という人間を、わたしなりにデッサンしてみたいと思っていたが、彼女はその光と影を描ききれない大きな塑像である。とても書けない。それだけに胸問えは消えないでいた。
 ところが、しばらく前のこと、書庫を片づけていたら、隅の方から俊子の手紙が束になって出てきた。ほそ長い封筒や角封筒や、さまざまな形のものが一つに束ねられているのをほどいて、一本一本並べてみた。昭和十一年から十三年までの三年間の手紙である。
 わたしは、深い感慨でその手紙を開き、読んでいるうちに、これを主材料にして、わたし自身の俊子像を描く気持になり、やがてそれは決心めいたものになった。まずその手紙を書き写すことからはじめてみた。”航空母艦さま”とおだてられた手紙をみていると、その前後の彼女がくっきり浮かんでくる。二人のあいだに交された問答もはっきりしてくる。
(「あとがき」より)


目次

  • 第一章 紫衣のひと
  • 第二章 二つの強さ
  • 第三章 寂しい浪費家
  • 第四章 暗い時代へ
  • 第五章 婦人問題の深層
  • 第六章 苦しい恋愛と執筆
  • 第七章 日本を去る

あとがき

 

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