1977年10月、思潮社から刊行された堀口定義(1914~)の第2詩集。解説は犬塚堯(1924~1999)。第11回日本詩人クラブ賞受賞作。
第一詩集を出版してから三年の歳月が過ぎた。その間つとめて詩と一緒に暮そうとしたが仕事のこともあって作った数も少くまた思うようなものはなかなかできなかった。
ここにその二十篇を選んで第二詩集「弾道」を出版し詩作の上での一応の区切りをつけることとした。「風」の同人の方々にはいつも暖かい友情と激励をいただき特に土橋治重氏より終始適切なご指導を賜ったことに対し深謝したい。(「「後記」より)
生得において美しい感情というのはない。知恵による習練があるだけだ。
堀口定義氏はそのようにして詩人となった。僕はその道程が知りたい。
氏は本来聡明な人である。エリートであった。一高、東大を経て大蔵官僚となり、高級官吏を辞して実業界に入った。そして詩作に入った。氏のすべての経歴のうち、本気で詩作に入って以来のプロセスに興味がある。
官界にせよ、実業界にせよ、そこで発揮されるのは”鍛治屋の知恵”に過ぎない。堀口氏はハンマーのように才覚と腕をふるったに違いないが、人間らしい正しい姿勢と表情を崩さぬまま詩人への道に進んでいった。少くとも詩人の資質として欠くことの出来ない道義の感覚と眼を開いたまま夢を見ることの出来る感受性を保持したままであった。
処女詩集「ぴったり来ない」は題名が示す通り、哲学的意思にも、芸術的意思にも、ぴったりとする事象が未来であることを述べている。しかし、この楽しみ多い詩集を読みながら僕たちは俗をすっかり脱していない形の一人の賢人の含羞をみたのである。同時に思ったのは現代における真の求道者はこのような面持ちをしているのではないか、真に鍛えられたエスプリはこのように観照にゆとりをもち、自然への照応に確かさを示すのではなかろうかということであった。
故村野四郎氏は何かの新聞に、この詩集の題名への不機嫌をかくさなかった。大方の好評と敬愛をこの詩集が受けていたころである。僕にはわかる気がした。村野氏も求真を離れることのできない人である。しかし、道士たり得なかった。重い心を軽く支えてゆくことが出来なかった。堀口氏にはそれができた。幽冥を扱って気軽く、少しも焦立ちのないユーモアを示した。僕はいまでも詩集中の秀作数篇を忘れることができない。
この第二詩集は、本来ならば前詩集の、たとえば「雁」のように到達し得た鋭く、幽暗な心境がさらに深められた中の作品で構成されるものと思っていた。しかし、意外なトーンを装飾としてもつ作品が中心だ。諧謔はいよいよ洗練され、苦く、また楽しい。キーノートは前詩集から一貫しているが、モダーンな印象がある。手法において悩みがみえない。おそらく、氏は人世への決意に馴れて一息しているのだ。踊り場の詩書であろう。
(「厚い知恵の詩群/犬塚堯」より)
目次
- 弾道
- 氾濫
- 六月の長崎
- 象
- 睡眠へ
- 毒矢
- 壺
- BOILED TONGUE
- 虹
- 飼育
- 砂漠
- 麦秋
- 竜の落し子
- 秋
- 小鳥
- 雀
- 鮫
- 桜の花びら
- 桐の花の宵
- とにかく出かけよう
厚い知恵の詩群 犬塚堯
栞:「弾道」後記