情か無情か 岩野泡鳴

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 1920(大正9)年4月、日本評論社から刊行された岩野泡鳴(1873~1920)の長編小説。

 

 この長篇小説『情か無情か』が『實子の放逐』の名を以つて初めて中央公論に發表せられた時、數名の讀者から手紙が行つて、いづれもあんな不道徳な(と書いてあつたさうだ)小説を掲載するなら、以後同誌を購讀しない、自分らは寧ろ子供の方に同情するとあつた。そうかと思うと、また、作者は主人公の吾助をばかり是認しているやうだが、自分は寧ろ副主人公なるお兼の繼子に對する立場が一番氣の毒だと云ふ向きもあつた。
 すべてそう云ふ見かたは本當の小説を書く作者と云ふものの態度を知らないところからの部分的推測に過ぎない。
 この小説は一種高級な家庭小説として、作者が吾助から見た内部の世界を書いたに違いないけれども、實際に於いて決して吾助ばかりを是認してはいないのである。云はば、吾助の世界に現はれた本人は勿論のこと、その他のお兼、おせい、並びに二人の子供にも、また堤と云ふ夫婦にも、斯うした生活にはそれぞれ斯うなるのが人情の自然にやむを得ないと云ふところまで突ツ込んであるのである。作者としては、そのうちのどの人物へも偏頗な同情は寄せていない。その代わり、讀者がどの人物にも同情できるやうに書いてあるのだ。
 だから、讀者が諸人物中のどれかに特別な同情をしたり、またその一方にはけちを附けたりするのは、讀者自身の性格若しくはその時の心的事情によるのであるから、それは仕かたがないことであらうが、少しも作者の責任にはならぬのである。作者としてはもツと高いところにあつて、もツと廣い心を以つて作をしてあるのだ。そしてそこまでよく讀み味はえたものなら、作者に取つては、最も理想的な讀者と云はなければならぬ。僕が公けの小説作家としての希望はかかる讀者を得て初めて滿足を得るのである。
 が、この小説を書いたには、今一つ僕として特別に僕自身の私情的希望があつた。この點から云ふと、世界にただ一人の小さい人間がこの作を讀んで、これを自分自身に關することとして子供ながらに相當の理解を得て呉れればそれでよかつたのだ。そして、この希望は相當の效果を以つて達しられたのである。
 若しそれこの作の材料と同じことになる材料を、放逐された雄作らの實母おせいの世界から見たのに接したいなら、僕が引き續いてやがて七月には出版させる一小説――これはまた四百枚以上の長篇――に於いて見て貰いたい。
 今回の長篇には書物として頁數の餘裕があったので、別に附録として一幕脚本二篇を納めた。矢張り子供と云ふ物に關係ある社會悲劇である。
(「はしがき」より)

 

目次

はしがき

  • 情か無情か

附錄

  • 魔の夢(社會悲劇)
  • 解剖学者(社會悲劇)

 

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