悪評の女 十津川光子

f:id:bookface:20170915213132j:plain

 1968年1月、虎見書房から刊行された十津川光子(1938~)による真杉静枝(1901~1955)の評伝。カバー、装幀は根岸俊夫。

 

 昭和四十二年六月二十九日は、静枝の十三回忌に当る。
 うすむらさきのあじさいの咲きはじめた六月十日、女流文学者会の主催で「真杉静枝をしのぶ会」が北鎌倉の東慶寺でもよおされた。三十名近い出席者で、宇野千代円地文子佐多稲子吉屋信子さんら、生前の静枝と親しかった諸先輩の元気なお顔や、ご不自由な身体を押しての森田たまさんも見えられた。
 静枝の墓は、出席者の持ち寄られた色とりどりの花で埋まり「みなさんにも分けてあげましょう」ということで、お隣りの田村俊子さん、佐々木ふささんのお墓にも供花された。
 湿っぽい墓所は、にわかに華やかな色彩につつまれ「姉はなんてしあわせ者なんでしょう」と妹の勝代さんは合掌しながら涙を浮かべている。
「世間ではいろいろひどいことをいわれているけど、陽気な罪のない人だったのにねえ……」と宇野千代さんのお声がきこえる。
 私はお墓まいりのことよりも、初対面の、女流文学者会の大先輩の先生方にすっかり心をうばわれていた。品格を備えた美術品のように、どのお顔にも内面の豊穣さがにじみ出ていて、人間の美醜とは、こうした年代になってはじめて判定できるのではないかとさえ思われる。
 その点、静枝の顔立ちは、大阪時代から第二次大戦にかけての写真のほうが、その折々の内面の苦悩やよろこびが正直にあらわれていて素直に好感が持てる。晩年になるにつれて、軽薄な威を張ったような表情を残しているのは、やはり覚醒剤によるこころの荒廃が、そのまま面にあらわれているのであろうか。
 六月ニ十九日には、遺族の方々によって彼女の十三回忠が執り行なわれた。東慶寺の井上和和尚は、生前の静枝をよく知っておられる。
「中国から田村俊子さんの遺骨が戻ったときなんか、静枝さんは度々見えられ、世話をやいていましたがねえ……たしか高見順さんとご一緒に見えられたこともありましたよ。高見さんは静江さんが亡くなられたときも、なにかと墓地の面倒を見ておられましたが、癌の乎術をなさって一度退院なさったとき、こんどは自分の墓地を定めに、秋子火人とご一緒にこられてねえ、静枝さんたちのお墓にまいりながら『きれいな女性群にかこまれてねむるのはいいけれど、あんまり華やかすぎるよ』などと冗談を言いながら、だんだん奥へ上がって行かれてねえ、こんな高いところからみなさんを見下ろすことになっては失礼だなあ、など言いながら、結局は気に入られて、あそこにねむられることになったんですがね、諸行無常……ご緑ある方々が、いつとはなく集って静かにねむっておられる……」
 北条氏の執権政治、鎹倉室町幕府の滅亡、そして戦国時代江戸幕府と、おびただしい波乱の歴史を静かに見守りつづけてきたこの東慶寺には、唐糸のむすめ万寿姫が頼朝の追手にかくまわれ、護良親王の姉君が用堂尼となってその菩提をとむらい千姫を養母とする秀吉の孫娘も、八才でこの寺の尼僧となって数奇の生涯を終えた。

 松ケ丘東慶寺の歩みつづけたその遠い道のりを知ってか知らずか、竹樹におおわれた深い境内をゆっくりと散策している女子大生らしいグループがあった。教師らしい年配の紳士が一人道筋の小さな草花を指して説明などしている。
「あら、こんなところに真杉静枝のお墓があるわ」だれかがとんきょうな声をあげた。
 墓所の奥に通じる道添いに建っている彼女の小さな墓は、立ちのぼる線香のけむりや色鮮やかな供花で人目をひいたのであろう。
「真杉静枝って、なにものなの」「あら知らないの、ほら、原爆むすめのお世話をした人よ、ネェ先生、そうですわねえ」
 木洩れ陽のまぶしいやわらかい土の上で、若葉のようなミニスカートのむすめたちは、ほかに、も曰くありげな墓石が見えないものかと、宝さがしのような無邪気なまなざしであたりを見渡していた。

(「あとがき」より)

 

目次

序文・リチャード・レイン

  • 遺族
  • 静枝と母
  • 静枝と父
  • 秘境の小猿時代
  • 看護婦時代
  • 最初の結婚
  • 「小魚の心」をめぐって
  • 東大生・中村地平
  • 中山義秀との結婚
  • 七人家族の大黒柱
  • 人生案内と静枝
  • 青い目の青年学徒
  • 原爆娘の救済
  • ペン大会と「淋しきヨーロッパの女王」
  • 臨終ともう一人の妹
  • 遺書
  • 東慶寺風景

あとがき


NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索