発展 岩野泡鳴

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 1912(明治45)年7月、実業之世界社から刊行された岩野泡鳴(1873~1920)の長篇小説。「泡鳴五部作」のニ部に当たる。

 

はしがき

 

 この著『發展は僕の五部作の一である。事件聯絡の順序から云へば、第一は『耽溺』第二は『發展』第三は未だ發表せす、第四は『放浪、』第五は『斷橋』だ。然し發表した順序は、先づ第一のが明治四十二年二月の新小説に掲載せられ、翌年の五月に單行本となつて易風社から出た。次ぎに、第四のが明治四十三年七月に東雲堂から直ちに單行せられた。それから、第五のが明治四十四年一月一日から毎日電報と後の東京日々に渡つて前篇六十回まで連載せられ、その後篇四十回分が題を『寢雪』と附けられて、本年五、六、七月の新小説に載つた。いづれ單行本になる時には、『寢雪』は『斷橋』の一部になつてしまうのである。
 『發展、』乃ち、第二のは、昨年の十二月中旬から大阪新報に百回連載せられたのを、今、野依氏の實業之世界社から單行して貰ふことになつた。新報に載つてゐ亂時から、これに對して諸方の有識者諸氏の批評は聽かせられてゐたが、僕自身も『耽溺』 に次いで少からず會心のところがある作である。『放浪』を書いた時は、東京の郊外に於て明日の、パンをどうして得ようかと云ふやうな状態であつたから、早く書き上げて稿料にしなければならなかつた。要するに、充分な時間がなかつたのだ。だから、同時に出家上つた『斷橋』(『寢雪』を含む)を他日單行する時には、その前に所々訂正を加へようと思つてゐる。が、今回の著は先づさう云ふ必要が殆どなかつたと云つてもいいほどだ。
 いづれまたしツかりした批評を、して呉れる人もあるだらうと期待してゐるが、ここに一つ、田山花袋氏が文章世界(五月十五日號)に於ける評言に對して、僕の考へを陳述して置く必要があるかと思ふ。田山氏の物質的描寫に於ける缺點は既に僕が屡々指摘した。氏は暗にそれに對して『單に深く鋭くだけでは解らない。もう少し具象的に言つて貰はなければ』と稱して、僕等が深く鋭い主觀を求めるのは『咸傷的、』乃ち、センチメンタルであるかのやうな言を加へた。そして氏自身の所謂『徹底した自然に似北主觀』が却つて單に物質的な咸傷であるを知らないやうだ。そこを僕は淺薄で、鈍くもまだ形式に捕はれてゐると云ふのである。
 田山氏はただ物質的範圍にのみ見地を置いてざこから咸傷してゐるのを傍觀描寫もしくは『見た文學』だと決め込んでゐるに違ひない。然しそれは心靈的形式で見記文學でないと云ふだけで、靈型の代りに物的なのを持つて來たに過ぎない。そのどちらの型をも破壞した最も自由な立ち場(乃ち、肉靈合致的より外にない)からでも、見た文學は出來る。僕等のはそれで、それがまた『悶へた文學』にもなる所以は、主觀が田山氏の型のやうに固定しないで、幸ひにも自由に流動融和するからである。
 自由な主觀の流和を以つて直ちに無批評、好惡、咸傷などと同一視するのは、僕等の見たと同時に悶えた文學を理解するには餘りに狹隘な獨斷があるからだ。田山氏並に氏に雷同して自然主義の初歩に止まる一派は、藝術品と云へば、偏狹な物質的描寫でなければならないやうに考へると同時に、物質的に無批判で、咸傷してゐるのを少しも缺點と氣付いてゐない樣子が見える。そして僕等の新自然主義(或人はこれを本年の流行語に譯して、眞のネオロマンチシズムと云つたが)の描寫にばかりこの缺點があるかの如く思つてる。が、そこでもツと具象的に辯駁を重ねて置く必要があらう。
 田山氏は僕の『發展』の描寫法が『家』の作者などとは『正反對』だと云つた。無論さうだ。僕の小説に『日記のやうなところ』があつても必然的な聯絡があるに反し、藤村氏の活動寫眞的な物語りには、ちぐはぐな日記の覺え書きを無理にさし込んだやうな跡がある。僕のに『歌のやうな處』があつても、それは公然作中人物の咏嘆であるに反し、藤村氏のには、尤もらしく押し包んだ作者その人の咸傷が見えてゐる。田山氏はまた『黴』の作者とも違ふと云つた。それも無論だ。秋聲氏のには、氣の毒なほど思索的方面を缺いた主人公が描かれてゐるに反し、僕の五部作には、特に一種の哲學者を以つて任する人物がおもに活動してゐるのだ。
 然し田山氏が『發展』には作者が『自分の咸じたことが正常だといふ風に書いてある』と云ふに至つては、誣言も亦甚しい。多少そんな傾きがあつたと思ふ『放浪』にさへ、主人公の考へ若しくは咸じのぐれ違ひや、無理に自己の哲理を成立させようとしたことなどが、立派に描き出してあるのではないか?疑つて見れば、氏も多くの文學的職人肌の人々と同樣、自身に思索上の煩悶や苦心を左ほどして來た經驗がない爲め、小説中に描かれた思索的で而も熱烈な人物の性格や心持ちを充分日本人的に呑み込めないのかとも思はれる。然らざれば、又氏の獨斷を非實際的に述べてゐるのだらう。
 主人公は熱烈なのだから、その主觀が『迸出した』と見て呉れたのはありがたいが、その『一人の人物の意見で他を取扱ふこと』などは決してしてない。他の人物を主人公がどう見てゐるかと云ふことは、主人公その物を描寫するに最も必要の一つだから、屡々書き現はされてゐようが、『主人公の向ふ惻に立つた(乃ち、主人公以外の)人物などは、殆ど見やうともしない位にまで冷淡に取り扱はれてゐる』ことは全くないことだ。作者たる僕自身の意見を離れて秋聲、秋江、白鳥等の諸氏の言を聽いても、主人公よりは却つてお鳥の方がよく現はれてゐるとあつたではないか?僕自身は主人公に最も力を盡しただけに、矢張り、義雄が最も出てゐると思ふが――『千代子を汚い姿だと云つてそれを現はさうとするのは、所謂説明の形を取つたもので』と云ふ田山氏の意味がはツきりしないが、千代子に關しても、汚いと義雄が思つたとあるのは義雄の咸じであつて、渠のゐないところでも、どうも男子の期待する女らしくない状態があるので、初めて義雄の咸じたことが實際だと云ふ風に具象化せられてゐる。義雄に現はれた咸じを直ちに説明の形と見るのも餘り獨斷に過ぎる。
 義雄もしくはその他の人物の咸じは、心的生活上のことであると同時にまた物的咸覺上のことであるから、精神即咸覺の合致的描寫論から云へば、そのままで以つて具象的な描寫が出來ないことはない。それを田山氏は中村星湖氏等と同樣、咸覺と心的生活とを空想的に區別して、咸覺は描寫出來るが、心的生活は説明の外に道がないと誤解してゐる。描寫が專ら咸覺的だとは、咸覺が精神と合致的だと云ふ見地からでなければ、全部的命題にはならない。氏の如き半面的、唯物的描惱寫論では、その描寫と見えたものは全部、乃ち、内容を直下に暗示する(それが正常な描寫だが)のでなく、單にそれを表面から『の如し』的に形容するのであるから、寧ろ説明と云つた方がいい。小説の表現法に四階段ある。一、説明的説明。(これは最も舊派の所有であつた。)二、説明的描寫。(藤村氏の概念的靜觀描寫がこれだ。)三、描寫的説明。(田山氏の唯物的平面描寫がこれだ。)四。描寫的描寫。(おもな短篇に於ける白鳥氏並に『黴』に於ける秋聲氏のが近い。)鋭敏とか深刻とか云ふことはこの種の表現の自然的結果であつて、こと更らに咸傷的に要求するのではない。そして僕の肉靈合致的描寫はこの第四階の表現だと信じてゐる。(この四種表現論は別な場所で詳説する。)
 田山氏は、この續き物を『三分の二ほど讀んだばかりだから、よくはからないが』と遠慮してゐるが、人生は一個の特殊物に寵つてゐると同樣、内容的小説に於ける百回の内容は乃ち一回にあるものだ。三分の二がたツた一でも、また新聞紙上での一回分でも、それを少し忠實に讀んで呉れたら、その人が讀んだところだけで僕の作の内容全體も分かるものと思ふ。進歩した新聞小説は、この行き方を以つて『跡は明日のお樂しみ』的な興味を打破してしまふべきものだ、と僕は信じて憚らないのである。

 

明治四十五年六月五日
北攝池田の假宅にて
著者識

 

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