1922(大正11)年2月、大鐙閣から刊行された室生犀星(1889~1962)の第5詩集。装幀は恩地孝四郎(1891~1955)。画像は函欠。
このごろ詩はぽつりぽつりとしかできない。一時のやうに、さうたやすく書けなくなつたかはり、書くときはすらりと出てくる。それが詩の本統かもしれない。詩を書き出して十年になるが、やはり古くかいたことを時々かき換えへてゐるにすぎない氣がする。併し一方からいへば、一つのものをかいても、本統に別な氣持でかいてゐることを考へると、形式でなく、輪廓でもない、心核から、しつかりと自分をかゐている氣もする。
さういふわけで、私は特に作らうとするより、考へようとするより、れいの、すらりと書いてゐる。それすら極めて稀にしかできないのだから、私として珍らしい詩集かもしれない。詩などといふものは、甚だしく轉換るものでなく、一とところに目ざめてゐる心は、やはり、むかしのやうに一とところに寂然として沈んでゐるわけのものである。それゆゑ、變化つたとか變化らないとかいふことは、眞實そのものでなく、たんに形式や輪廓、もしくは詩行の配列などから言はれることが多いのである。
リズムの問題なども、文字の上では、絕對にありえない。内容の優柔な波動や、その詩の心の状態などに、眞のリズムがある。形式や文字の列なりにはない。すくなくとも第一流の詩には、リズム論者などの通常的色盲にはふれることのできない、いいところがある。ぼんやりした美しい肉顔に向つてゐて、それがどうといふこともなく、ただじんわりとうつくしく感じるところの、その美がある。決して言ひあらはせない、目や口ではなく、また皮膚でもない、統べられた或るふしぎな美しさがある。詩もやはりさういふところにいいところがあるに違ひない。それは總て部分からいへば皮膚の繊細でもあり目の圓滑でも肉置きのゆたかな點も、部分的に指摘することはできるであらうが、それを狩りあつめた、何ともいへない、ぼんやりとした美は、それ全體の上にある筈だ。私の詩も、いくらかさういふ表情のなかから沁み出たやうな子供らしい觀念をいまだに持つてゐるのである。しかし、さういふいいものが私の詩のなかにあるかないかが甚だ疑はしいが、私としてはやはり左ういふ傾向に氣が向いてゐることを一言述べておきたいのである。
(「序」より)
目次
序
我庭の景
- 藁
- 天の一方
- 途途
- 虻
- むじな
- 我庭の景
- 星簇
- 青九谷
- 鷄頭
- 冬さめ
- 蟲
- 話し聲
- 苔
- ふたりの子供
- 雨後
- 街と家
- 二つの心
- 海
都會の川
- 都會の川
- 富士山
- 道路 その一
- 道路 その二
- ある雜景
- 人を訪ねて
- 幽遠
- 西日の中
巣
- 地獄の刷繪
- 淺草公園のなかにある寺
- 巷塵
- 錆
- 池
- 田舎
- 道路
- どうどう廻り
- 都會と屋根
- 客
- 巣
障子の内
- 家
- 冬木
- 春の午後
- 或る夜
- 障子の内
- 桃の小枝
- 小鳥
- 星
- 暖爐
- 冬
- 恐怖
夏晝
- 鮎のかげ
- 夏晝
- 夜
- ゆめ
- 蠅
- 山峽の道路
- 山の手線
- 土手
- 愛陶の民
- 盜心
- 美しき蠅の歌
- 顏の印象
雀どり
- 乳をもらひに
- 枇杷の實
- ふくらふ
- 雀どり
- こども
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