室蘭 下村康臣詩集

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 2000年3月、ワニ・プロダクションから刊行された下村康臣の長篇詩集。

 

何年間も投げてあった草稿に手を付けるに際して(病を得なければ、文字通りそれは反故になったでしょう。作品の価値の原器は今の私には無意味です)、偉大な先輩達に感謝します。
摂取できなくなり、次第に衰弱するのに反して、誰しもがそうだと思いますが、求めるのは、よりリアル(夢のリアルということもあります)でありながら、寓意的、象徴的な、人生を丸抱えできるイメージです。
内視鏡の管が、身体の内側を這い廻る感覚から、〈私〉は常に内側に居ると云う意識に修正を迫られました。
とりあえず死とは、守られていた内側の破壊、喪失だった訳です。
永井均さんの著作に出合ったのは、多分幸運だったのでしょう。私も似たような子供でしたし、今もその種の人間だと思っています。『子供のための哲学対話』これは恐ろしい本かも知れません。
先輩達の話を続けましょう。
「人は幸福になるために生きている訳ではない」何処で読んだのか、聞いたのか、誰の言葉なのか全く覚えていません。幸福でなければならないと云う強迫観念から解放されました。
マルセル・プルーストのコルク部屋が理解できます。若い時は何と大げさなと感じ、安吾の乱雑な書斎での写真の方に心を動かされたものです。ここはコルク部屋どころか、六人部屋です。何時倒れるか解らない人も入って居ますし、見舞客の話も全員が聞いています。溲瓶の音も、おならの音も、溜め息も。私はコルク部屋を準備することはできませんでしたので、ベッドのスチール棚で書いている訳です。
アルチユール・ランボー。詩を捨て(?)、商人の端くれとなり、執着した黄金(小金と書くのは止めます、海に溶け込む太陽の色だった筈ですから)を胴巻きに入れ、本国に逃げ帰り、癌腫の足を切断し、結局は身罷った(翻訳の一表現)。
どんな意味合いだったのか、(ぼくは)彼が倒れた処から始めると人に語ったこともありましたが、こうして書きつつ先言に反しているのは残念です。
静かな死の準備とその不可能性を文章化した『見ちがい言いちがい』や『また終わるために』のサミュエル・ベケットの名も上げておきます。
入院に際して、聖書の類いも写真集も持って来ませんでした。ベケットの2冊と永井さんの2冊は今手元にあります。

 

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