1968年12月、三一書房から刊行された日野啓三の評論集。カバーは石川勝。
本書は『存在の芸術――廃墟を越えるもの』(南北社)、『虚点の思想――動乱を越えるもの』(永田書房)に次ぐ私の第三評論集である。
『存在の芸術』では芸術の原理的試論を、『虚点の思想』では精神の変革に関するエッセイを、それぞれ中心にしてまとめたのに対して、本書はほぼ純粋に文学的な評論を収録した。
第三評論集といっても、必ずしも年代的に新しい作品だけを集めたものではなく、冒頭においたトーマス・マンの『ファウスト博士』論(私はこの作品に不思議な親しさと愛着をもっている)などは、二十代のときの作品である。
だが第三部の梅崎春生『幻化』論と谷崎潤一郎『夢の浮橋』論は、私の最も新しい評論で、とくに『幻化』論は、私の文学批評上の仕事のひとつの方法的到達をなすものと考える(文芸批評においては作家論より作品論こそ基本的なものと考える)。
また第二部の「幻視の視点」にまとめた文章はすべてことし(一九六八年)書いたもので、それぞれは短くて十分に論理と感覚を展開しえていないが、これら一連の文章を書くことによって、私自身は私なりに、いわゆる現実を越える空間を予感できるようになったように思う。
書名に使用した「幻視」という言葉は、必ずしも十分に熟した言葉ではない。「幻想」という言葉の方がたしかに通りはよいと思われるが、敢えて私は自分の実感に従った。
というのは、私が「幻視」という言葉で実感しているのは、イメージでもファンタジーでもないいわばヴィジョンという言葉に近いものである。私の語感では、イメージ(映像)はいわゆる現実を受身に受感するだけの非主体的な概念のように思われ、他方、ファンタジー(空想ないし幻想)は主観的すぎて現実を変容するというベクトルに欠けるような気がする。
それに対して、ヴィジョンという言葉には、単に何らかの対象を”見る”だけでなく、見えるものの全体を越えて、まだ見えないものないし隠れることによってのみ現わされるものをも”見透す”予言的で根源的な魂の深い能力がこめられているような気がする。
私が「幻視」という言葉で意味したいと考えたのも、そのような能力に他ならない。
(「あとがき」より)
目次
宿命の逆用
逸脱への意志
幻視の視点
- 事実と虚構
- 現実と妄想
- 思考と幻想
- 夢と狂気
- 物と空虚
- 逸脱の時空間
根源的ヴィジョン
あとがき