1990年1月、文化総合出版から刊行された辻野透の随筆集。著者自装、表紙・扉絵は山高登。
ある日、そば屋さんで時間外れの昼食をすませ、勘定をしようとしたら、持っているのは小銭ばかりだった。困ってありていに店の人に言うと、そこにいたおかみさんが、
「どうなすったんでしょうね」
と心配してくれる。
うっかりして上衣の内ポケットに紙入れを移すのを忘れて来たらしい。するとおかみさんは、いつでもいいんですが、それじゃおつりを差し上げておきましょう、と言った。わたしが帰りの電車賃にもこまるのではないかとの推量である。それは小銭で間に合うからと、わたしは言ったが、そこは初めての店である。
疑われても仕方がないのに、こんなおかみさんに、わたしは心を揺すられていた。あとで勘定をしたのは言うまでもないが、その日のことはいつまでも忘れないであろう。
浅草でのことである。
わたしの下町贔屓は、おおかたこんな出合いからであったと言ってもよい。
この本は前の二つの本の続きのようなものだから、『下町通信続々』としてもよいのだが、『下町手帖』としたのは、所詮、手帖の寄せ集めと渝らないのを知ったからである。他意はない。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
- 橋の上
- 雨の中
- おしろいばな
- 百花園
- ことばの印象
- 月待男の記
- 秋暑
- 下駄屋まで
- 地蔵
- 水元公園夕景
- ちっぽけな来訪者
- 散歩道
- 水たまりの空
- 火のない火鉢
Ⅱ
Ⅲ
- 一枚の絵
- 本所茅場町三丁目
- 掘割りのそばの家
あとがき