1979年4月、文化出版局から刊行された山本沖子の第2詩集。第4回現代詩女流賞受賞作品。
『朝のいのり』は、私の第二詩集です。
第一詩集『花の木の椅子』(新版、昭和五十二年)の末尾の詩と、『朝のいのり』の最初の詩とのあいだには、ほぼ三十年の歳月のへだたりがあります。
その間、私は詩を書くことがまったくありませんでした。書けなかったからです。
貧しさ、いそがしさ、からだの弱さ。理由らしいものは、いろいろあげられるにしても、ほんとうの理由がなになのかは、私にも、よく分らないのです。私は若年の頃、教えていただける師もなく、仲間もなく、まったくひとりで、突然のように詩を書きはじめました。それは太平洋戦争の終わる、ほぼ一年ほど前のことでした。
それが、当時、福井県三国町に疎開中の三好達治先生のお眼にとまり、『花の木の椅子』所収の詩については、実にきびしい、ありがたい、ご指導をいただくことができたのでした。
「日本語で、これ以上美しい詩を書くことは、たとえ、だれであっても、できない」と、あるとき、先生が私におっしゃってくださったのも、その頃のことでした。
おなじ頃、伊東静雄先生は、私にくださったお手紙のなかで、「孤独と、祈りに似た善意が、私に大へん深い感銘を与えました。混迷した今の世相を背景にして読んで、そんな感銘を受けたのです。又そんな読み方をさせるものが確にこの詩集にはあります。私自身強く快い刺戦を受けたことを感謝します」(昭和二十二年五月十二日付)と、おっしゃってくださいました。
これらは、もちろん、たいへんな過褒のおことばでした。しかし私は長い年月、両先生のおことばをささえにしてまいりました。いわば、それは、私にとって、黄金の杖でありました。その後、詩を書けなかったとはいえ、私は、私なりにいつも詩について考え、勉強を一つづけていたのです。
昭和五十年の夏、今度も、突然のように、私はふたたび詩を書くようになりました。
なぜ、ふたたび書くことができるようになったのでしょうか。このことについて考えても、やはり理由というようなことは、分らないのです。
とにかく、その後、現在まで、およそ百二十篇の詩を書くことができそのなかから、「故郷」に、ほぼ焦点の合っているものを五十一篇えらび、第二詩集『朝のいのり』を編集いたしました。私の故郷は福井県若狭地方の小さな町です。私は、ながい間、私の郷里へ帰ったことはありません。
私が八歳の春、私の母は病死し、そのほぼ一年のちに、父もまた重い病気にかかり、うつくしかったと、いま、私の心に思う私の家は、荒れ、しだいに崩潰のような過程をたどってゆきました。
いま、改めて、この詩集をふりかえってみますと、母のことを、いちばん多く書いていることに驚きます。
母よりも、私は、はるかに長い年月を生き、人生をあゆみ、悲しみや苦しみをかさねるほどに、記憶のなかの「母」は、なぜか、輝きをましてくるのです。
長い歳月のあいだ、私に、かわらぬ期待をよせられ、おはげましくださった杉山平一氏、機会あるごとに、これも長い年月にかけて、私の詩をご推薦くださった小川和佑氏、谷川俊太郎氏に、深い感謝の念をささげずにはいられません。
(「あとがき」より)
目次
春
- 春
- 母
- 貝殻
- ずっと昔の春
- 作文とマリ
- 時の車
- こうもり
- 理科室
- 町
- 写真
- 花の絵
- 窓
- 蛇の目傘
- 燭台
- 水たまり
- 庭
夏
- 夜明け
- 波の音
- キャンデー
- ギンヤンマ
- 夏の朝
- 校庭
- 講堂
- 八月三十一日の夜
- 私の部屋
- お座敷
- アイスクリーム
- 赤い屋根の家
秋
- 故郷
- 朝霧
- 訪問
- 舞扇
- 夕ぐれ
- 洋服箪笥
- 灯影
- 母の箪笥
- 今ひとつの海
- 夕陽
- 就寝
- 橋の夢
- うつくしい墓
- 行列
- 秋
冬
- 冬
- 夜
- 妹の病気
- 渡り廊下
- 母の編み物
- 人形
- 柳こうり
- 朝のいのり
あとがき