2016年12月、土曜美術出版販売から刊行された龍秀美(1948~)の第3詩集。カバー画はウ・テイエンチャン(呉天章)。
この頃、自分の中で詩が生まれてくる場所について考えることがある。一番深いところの、何に触発されて詩が生まれてくるのか。
以前は「言葉」が導いてくれる道筋に頼っていたが、近年はむしろ「遺伝子」に指し示されているような気がする。生物学的な遺伝子、歴史の遺伝子、地勢や風土の遺伝子。それらは私の意志の及ばないところで、ほのかに明滅している。闇に隠れたかと思うと、不意打ちに現れ、圧倒する。
父が米寿を過ぎたこの頃、不思議なことが多く起こる。母が倒れた五年前まで、ほとんどといっていいほど語らなかった故郷・台湾のことをぼつぼつと語りだしたのだ。アルツハイマーで五分前のことを忘れる状態でいながら、八十年前の記憶が鮮やかに蘇る。それは断片だが、非常に鮮やかで肉感的だ。ピーナッツを食べていると不意に牛の話になる。
「牛を半日追うと落花生が食い放題だった」。油を搾る臼を牽く牛。しかし鮮やかに呼び覚まされるのは牛の姿ではなく落花生を搗く杵の音だ。テレビの中に流れている水が、記憶の鮎を呼び込む。台湾の急流に放流された琵琶湖の鮎。
記憶は遠くなるほど身体に付く。味や匂いや音や手触り。そして恥や怒りや哀しみや欲望の軋みだけが残る。以前は触りたくなかったそれらは、わたし自身の暗い無意識の感情と溶け合い、反発し、よじれあって、ゆっくりと螺旋を描いて昇っていく。
詩集のタイトルとし、また扉書きに記した「父音」という言葉は明治の半ばまであった言語学の概念らしいが、その後子音と統合され、現代では広辞苑の記述でも「ふいん【父音)子音に同じ。」と冷たいほどそっけない。
(「記憶の螺旋――あとがきに代えて」より)
目次
- きょうはんしゃ
- 冬薯夏魚
- 芋の在り処
- 大甲渓の鮎
- 犬
- ラッキーストライク
- 台湾一周カラOKバス
- 迷子
- 横切る
- タマグス
- てんぷら
- 押す
- 蚊帳の吊り手の場合
- 夫婦
- チャポンとパチャン
- 母が言う
- 一九八一年刊『民衆日韓辞典』
- 歴史の上下
- 大叔父陳徳和家の家族
- 人間の蝶
- 長崎の空に
- 跨いだ原爆
記憶の螺旋――あとがきに代えて