夏の終わり 河津聖恵詩集

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 1998年8月、ふらんす堂から刊行された河津聖恵の長編詩。第4詩集。装画は久代晃、装幀は君嶋真理子。第9回歴程新鋭賞受賞作品。

 

 この詩集では夢の中という設定で旅をしています。「詩というもの自体言葉の旅だとすれば、その旅には現実の旅以上につよく、鮮明な空(白)が必要であるように思えます。それがここでは「夢」という設定でした。
 詩が旅であるとは言い古されたことかもしれませんが、私にはある言葉がまるで駅名のように思えてしまうことがあります。それが旅へと誘っているようなたたずまいにみえてしまうのです。けれどそうした駅名のような言葉を契機に、「夢」という無限の拡がりを各駅停車で旅してゆくことが、詩を書くことの根源的なのぞみに思えてなりません。
 「夏」は「夢」や「無限」へその意味を拡げてゆく言葉です。けれど現実には、季節はまるで「時間」のようにあわただしく過ぎ、私は季節がわからない奇妙な月日にいる気分がいつもしています。それはなにか恐ろしいことのように思います。「夏」へと高まり、「夏」から凋落する季節の巡りが、心身で感じ取れなくなってゆくこと――「夏」が「夢」や「無限」をはらむものであるのなら、なおさらそれは恐ろしいことに思えます。
 「夢」や「無限」は、私たちにとってもはや終わってゆくものかどうかはわかりません。けれどもしそれが終わってゆくものだとしたら、本当はその「終わり」をもっとゆっくり、心身で味わいつくさなければならないと思うのです。そのことによって、「終わり」はもしかしたら「終わり」ではなくなる、たとえ「はじまり」ではないにしても、名づけようもないものとして蘇るかもしれない、とも思うのです。
 実際、現実にはさまざまなものの「終わり」が喧伝されています。けれどそのような「終わり」はあからさまに唱えられることによってしらじらと干上がり、むしろ剥き出しな形でこそ本来的ななにかを隠してしまうように私には思えます。現実の言葉によっては隠されてしまうそのような残照(おわり)。それを、詩の言葉によってかろうじてひらかれる「夢」の空間の中で、蘇らせてみたい――書き上げた今となって思えば、この詩集ののぞみはそのようなものだったかもしれません。そして、詩の言葉を通じて蘇る残照(おわり)をみつめる(実はあからさまに甘美な)視覚そのものが、この詩集の「私」であったかもしれない、とも思うのです。
(「あとがき」より)


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