1991年5月、本多企画から刊行された本田寿の第5詩集。第42回H氏賞受賞作品。
一九八八年(昭・63)十二月十三日、父周市が延岡の自宅の庭で僅かな塵を焼却中、その火が着衣に燃え移って焼死した。
一九八九年(平・1)六月四日、兄利通が延岡の自宅近くの田圃に自転車もろとも転落、そのまま窒息絶命した。父の死から半歳も経っていなかった。五十六歳であった。
一九八九年(平・1)七月二十二日、利通の四十九日に合わせて遺稿詩集『老父抄』(赤道の会編)を出した。兄が父をテーマに書き継ぎ父の死によって完結した連作であった。妻紀子が活字を組み、私が印刷した。出版印刷業をはじめて漸く一年目であった。
その後、一九九〇年(平・2)六月の一回忌には『赤道・別冊/本多利通追悼号』(赤道の会編)を出した。これには四月から仕事を手伝ってくれるようになった姪の未佳(『老父抄』に登場するミカ)も活字を組んだ。年表は私が編んだ。
一回忌に先立つ一九九〇年(平・2)二月の『詩学』三月号に「挽歌二題」と題して父と兄の挽歌を同時に発表した。杉谷昭人氏が電話してきて「けしからんネ」と言った。肉親の死さえ詩にしてしまう自分がかなしかった。しかし、漸くこの頃から二人の死が大きくのしかかってくるのを感じていた。
ちょうど、その頃、市制五十周年を記念して長崎県諫早市が制定した「伊東静雄賞」の募集を知り、のしかかってくる死を振り払うように父の挽歌「海の馬」を書いて応募、幸運にも第一回伊東静雄賞を受賞した。
父の生き方に、ついに一度も従うことのなかった私が、父の挽歌を書いて受賞とは、泉下の父も苦笑しているに違いない。
兄利通の評価は聞けずじまいということだが、生前、たがいの詩について正面から話し合ったこともないので、それはそれで良しとして、やはり受賞の知らせは冥界の兄に一番先に報告した。
一九九一年三月三十一日、諫早での受賞式に出席、その晴れがましい席で、ただただ硬直していた。
さて、来たる六月四日は利通の三回忌、これを済ませれば、兄の死はもちろん、父の死にもいくらか冷静に向き合えるかも知れない。そこで二人の死に直面するまで書きつづけた「果樹園」を整理しておくことにした。人間の存在そのものに関わる、愛や死や苦悩、そして悲しみがテーマである。青臭いと言われようが、私はやはり、詩の奥深く「人が生きて在る」ということの根本命題を沈めていた
いのである。
今、冥界の父と兄への音信のつもりで挽歌を書きついでいる。切実に、いや、痛切に生きたいと願うほど私の詩は死に寄り添って行くばかりであるが、「詩を書く行為は死の予行演習である」と言っていた兄利通の言葉を詩作の過程で確認したいと思う。
(「あとがきに代えて」より)
目次
Ⅰ
- 果樹園Ⅰ
- 果樹園Ⅱ
- 果樹園Ⅲ
- 果樹園Ⅳ
Ⅱ
- 物語
- 聖夢譚·拾遺(夢の入口で…)
- 聖夢譚·拾遺(夢の荒野に…)
- 聖夢譚・拾遺(その人の足は…)
- 驟雨
- 魚
- 不治
- 関係考
- 光の音
- 郷愁
あとがき