綾垣 佐藤三保子句集

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 1978年5月、端渓社から刊行された佐藤三保子の第1句集。

 

 一つの人生を確かに生きた人ならば、誰でも一篇の小説を書くことが出来ると、そんな言葉を嘗つて讀んだ記憶がある。たしか一篇だけはという限定がついていたような氣がするが、それを實際に文字に綴るかどうかは別として、その來し方が小説の一篇ぐらいにはなると思う人たちがいても、あまり珍らしいことではあるまい。ただし、それを實現しようとすると、かなりの準備と努力が必要となるから、その多くは遂に書かれざる小説として終るわけである。
 しかし、俳句の場合は、それを手がけようと思いさえすれば、誰もが即座に出來るものと考えられているらしいので、小説を書こうとするときほどの大きな負擔を、前もって感じることはないであろう。事實、多くの人たちは、さしたる用意もなしに俳句形式に關わりを持ちはじめ、また、その後も安穏に關わりつづけるのである。したがつて、まさに作者そのものとも言うべき一句とか、その一句一句の累積であるはずの一冊の句集に関して、それほど切な感慨を持つようなことは、むしろ稀ではないかと思われる。
 おそらく、たいていの俳人は、みずから口の端にのせ、みずからの手で書きとめたからには、いずれの作品も作者そのものであるのが當然と思い込み、それにいささかの疑いを持つたこともないであろう。そして、そこには、俳句形式と作者との極めて恣意的な關係と、ほとんど無自覚に等しい惰性的な習慣があるばかりである。もちろん、この一句というようなものを書いたつもりの人たちも少なからずあろうと思うが、その多くは、せいぜい仲間うちで評判がよかったなどの低次元の反應が直接の刺戟となり、そう楽天的に錯覚しているにすぎない。それらの句の大半は、作者の人生と俳句形式とが渾然一體となり見事な一回性の言語表現を獲得しているわけではないから、實はまだ誰のものとも言い難い段階なのである。
 言うまでもなく、俳句のような極端に短かい詩形に多少なりとも人生の深層の思いを託そうとするのは、決して容易なことではない。もともと俳句は、何かの存在を明らかにするというよりも、かえつて何かの非在を絶えず認明しながら、人生には容易に見えざるものが多くあることを改めて認識させようと、繰り返し強い喚起を行なう形式であつた。これは、わずか十七字の言語表現などというものが、そもそも激しい矛盾と撞着を孕む不思議な観念であるのを思えば當然のことで、このあまりにも變則的な詩形をもつて人生に肉薄しようとすればするほど、それ以外にまったく方法はなかつたにちがいない。そして、これを文字どおり忠實に實践しようとする場合には、それ相當の高度な言語技術が必要となるはずであった。
 しかし、このように厳密に考えてゆくと、俳句形式に關わるに先立つて、おおむね貧しい言語體験しか持たず、また、人生の皮相ばかりを眺めて来た人たちには、とうてい手に負えるはずのものではなかつたが、そのことを誰も深く案じているとは思えないのである。むしろ、俳句に關わりを持つたのちも、その形式と言語について意を用いる時間は、なお依然として驚くほど限られており、しかも、それで何もかも事たりると多くの人たちは信じつづけてきたのであつた。たしかに、それで事たりてしまうような他愛のないものが、いつも俳句として書き継がれているが、それは、もはや限りなき焼き直しの連續と、その氾濫と言うべきものに他ならなかつた。したがつて、いま俳壇に廣く流通しているものの大半は、率直に言えば俳句ではないし、その作者の人生ともほとんど無線の、まつたく些末的な十七字の片言にすぎないのである。
 近年、俳壇には女流の進出が著るしいが、これが俳句形式の在り方をいつそう無残なものとしてしまつたことは否定できない。意識的にせよ無意識的にせよ、遂に言語空間というものが存在することすら知らない女流たちが、せつせと十七字の鑄型に入れては取り出してくる簡便な言葉の手料理は、いつたい何と呼べばよいのであろうか。そこには初めから何も存在しないので、まさしく非在そのものに違いなかろうが、しかし、その非在は如何なる屈折をも見せず、ただ一直線に精神の非在を證明するばかりであつた。これらの人たちの魂や言葉は、なぜ俳句形式に關わりを持とうとしたのか理解が出来ないほど、いささかも病んでいなかったのである。
 佐藤三保子さんも、かなり長期にわたつて、そういう女流の一人であつたと思われる。もちろん、その俳歴について詳しく知つているわけではないが、佐藤さん自身が語つたところを総合すると、どうもそうらしいのである。それが、あるとき、一念発起というか、短日月の間に数十冊もの句集を集中的に讀み耽り、その結果、來し方の一切がまつたくの道草にすぎなかったことに気がつき思わず愕然としたのであった。たぶん、そのとき佐藤さんが垣間見たものは、同じ十七字の言葉の働きにも、實に大きな差があるということであつたろう。それは、むしろ當然のことであるはずなのに、いままで、その當然に気づかずに來たのであった。
 だが、いったん言葉というものの不思議さに興味を持ちはじめると、それからそれへとさまざまなことが實感されてくる。そして、あらかじめ書くべきことが多々あると切實に思われるようなとき、言葉ほどじれつたいものはなかつた。言葉は、作者の意圖を汲みながら進んで忠節を盡くすような従順なものではなく、かえつて頑ななくらいに言葉自身の意志を貫きとおすのであつた。にもかかわらず、いまや言葉による啓示の力は、とうてい無視できなかったのである。
 たとえば、ある一つの言葉に特別の親しみを覚えはじめると、それまで見えなかつたものが突如として明かるみの中に出現し、また、それまで自明のことく思い込んでいたものが、たちまち暗黒の彼方に消えてゆくのであつた。そして、また、過ぎ來しの人生に意識的な喚起を行ないながら、そこで何かを的確に見定めようとすれば、それを知り盡くしているにふさわしい唯一の言葉を発見することが、是非とも必要なのであつた。その唯一の言葉との遭遇に徹底的にこだわることをせず、ただ漠然と思われているだけの人生などは、いわば感傷的な類型にすぎなかったのである。
 こうして新しい言語體験の自覚が始まつたとき、佐藤さんが痛切に歎かなければならなかつたのは、その言語技術の未熟さであつたと思う。もちろん、この場合の言語技術とは、しばしば俳壇で賞讃を博してきた技巧的な言葉の言い廻しに類する枝葉末節のことではなかつた。しかし、言葉についての新しい自覚が加わりながら、では具體的に何をなすべきかと考えると、もつぱら途方に暮れる他はないという思いが、いよいよ募るばかりであつたろう。その途方に暮れる思いを佐藤さんが僕に洩らしたのは、たしか昭和四十九年であつたと思う。おそらく、そのときの僕は、二つ三つの助言を與えたにちがいないが、それ以来、佐藤さんは大いに勵むところがあつた。いままで隠れていた佐藤さんの才華の幾つかが、やや遅ればせながら開花し、そこに新しい境地が展けていったのである。ただし、新しい境地といっても、よく考えてみれば、佐藤さんにとってまったく未知なる世界というわけではなかつたはずである。むしろ、観念的または情緒的には既に知り盡くしている世界といつてもいいものであろうが、たぶん、それを的確に言葉で言いとめることが出來ないままでいたのである。別な言い方をすれば、ほとんど何も表現していないに等しい蕪雑な言葉を並べて、それで何かが書けていると絶えず信じていたために、結果的には、この世界を的確に知らぬままに過ぎて来てしまつたのであった。
 その既知にして未知なる世界が、いま幾つか佐藤さんの前で展けはじめたのである。そして、この句集は、その貴重な累績である。
(「序/高柳重信」より)


目次

序 高柳重信

あとがき


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