醉いどれ船 田中英光

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 1949年12月、小山書店から刊行された田中英光(1913~1949)の長編小説。

 興にのれば一日、三、四十枚は書く私が、この僅か四百枚ばかりの中篇をモノにするのに、一九四七年の秋、第一章を書いてから、いま四九年の初秋、第三章の終句を書き終るのに、まる二ヶ年を殘している。
 その二年間、私の身邊は多事多難。二度の精神病院生活に一度の留置場生活。恩師太宰さんの自死、私自身の家庭の解體など、苦しい出來事の連續だつた。その數々の苦しさと戰い、切りぬけ、やッと完成した中篇だけに、私のこの作品に關する愛着は深い。
 第一章(百二十枚)は、一號だけで潰れた雜誌、”ロマネスク”の三號に發表する積りで書いたのが、ダメになつたので、長く、棚の上に埃りだらけになつていたのが、これも現在、休刊中の雜誌”綜合文化”の編集者に拾われ、昨年十一月號の同誌に發表された。
 發表後、間もなく、小山書店で全部書いたら單行本にしたいと云つてきてくれたし、”綜合文化”の編集スタッフの一部にも好評で、批評家花田清輝氏なぞも、第二章を書くよう勸めてくれたので、私は氣負い立つて”綜合文化”今年の二月號かの豫定で、昨年の暮に第二章(百二十枚)を書き上げた。第一章は伊豆三津濱の疎開先で、五日もかゝらず書いたのが、第二章は新宿花園町の寓居で書き、たしか半月近く掛つたのを覺えている。
 處が”總合文化”休刊の爲花田氏の勸めで第二章のみ、”夜の會”の機關誌に競表される豫定だつたのが、種々の都合でダメになつたりしている中、私は過失傷害事件を起し、留置場から松澤病院に送られ、約二ヶ月、身邊の自由を奪われていた。
 この事件の前後、小山書店の高村昭氏の私に示してくれた好意と盡力は竝々ならぬものがあり、私は一半は氏のお蔭で早く退院もでき、この第三章(百三十枚ばかり)も約一ヶ月ばかりで書きあげられたものである。
 扨、この作品には現代風な奇妙な物語としてのテエマが、はじめから私にあつた。また、面白い純文學を書きたいとの意向があり、創作ノオトには、次のような私の狙ひが書かれている。
(讃者と作者の興味が一致するよう書きたい。その爲、物語を縫う一本の堅絲、重慶への密使を廻る事件のカットウを大膽に前面にだすこと。また堅絲を横から縫うアネクドウトの選擇に注意する。あり得るようで、あり得ない、あつたようで、まるで無かつた架空の出來事を書く。云々。)
 それ故、この物語はいかにも寓話じみて書かれ、夫々の登場人物にモデルらしいものもあるが、根本は、あつたようで、まるで無かつた現代の戀のお伽噺を書いたという點を讀者に諒として頂きたい。
(「跋/田中英光」より)

 

目次

  • 第一章
  • 第二章
  • 第三章


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