虹のかけ橋 小島千加子詩集 

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 1982年3月、沖積舎から刊行された小島千賀子(1928~)の第1詩集。装幀は宗方禮。

 

 去年の暮、私が絵と字の個展をやつてゐたとき、小島千加子さんの詩集のゲラ刷りが舞ひこんだ。それは予想外の、全くの驚きだつた。小島さんとのつきあひは十何年か二十何年かはつきりしたことは分らないが、彼女が詩を書いてるなどとは全く知らなかつた。「夕果」といふペンネームで二、三の雑誌に発表されたこともあつたらしいが、相当繁くつきあつてみたのに、そのことに就いては彼女は一言も話さなかつた。
 私は元来、自分よりも年若い人たちを先輩と思ふ、案外頑固なクセをもつてある。つまり未来が先輩なのだが、その未来から突然一冊分のゲラ刷を見せられたのである。
 私は八分通りあきれて読んでみたが、それらはまるつきり私の詩とはちがつたもので、象徴的で重量感がある。あの軽やかな美女がこんな深い重たい詩を書くのかと、私はしばらくはぼんやりあきれてゐた。
 世界中の人間の人種は雌の三千民族の数には及ばないが、それでも詩を書いてる人間は五万や十万には及ぶだらう。小島さんもこの一冊によつてその一人に加つたわけである。もしも彼女が私のやうにこの五月には七十九歳の白髪バッパになる年に生れてゐたら、このやうな詩を書く命運をもつたらうか、先輩に対する私のこだわりの一つは、そのあたりにもある。
 ジャーナリストを止して詩を専門にやつたらなどとは私はアドヴァイスしない。ジャーナリストでこれらの詩を書いてゐたのだから、これからさきもジャーナリストとして東奔西走を、むしろ勧めたい。そして出来たら半白髪になつた頃にもう一度相聞歌を自ら作曲して歌つてもらいたいものだ。
(「寸言/草野心平」より)

 

 人は誰しも、詩的な感興に無縁でない年代を通過する。その時期、幾篇かの詩に紛ふものを書いたが、以後二十余年、私の机を私自身の為に役立たせることはしなかつた。ともすれば机の前に座りこみ勝ちな私を、否応なく外へ、人中へ駆り立てずにはおかない編集者稼業に魅力を覚え、血道を上げたためである。
 春に母が歿し、秋に三島さんが亡くなられたその年から、日記代りに、時折の感懐を心覚えに記すやうになつた。詩とは言ひ難くとも、のちのち、自分への示唆になればといふほどの、いはばメモワールである。その中の幾つかは、「ポリタイア」「公園」及び、小島夕果の別名で「小説と詩と評論」に発表したが、それらに未発表の数篇を加へ、昔の稚拙なものをも若干拾つて一巻にまとめた。
 私の縁辺には死者が多い。母の死を契機として私のうちにかかり始めた虹は、幽界からの声なき声に誘ひ出されたものであるかもしれない。わけても、三島、檀両文学者への哀悼の意から挽歌として立てたい気持が強く、自然に万葉集の分類に準じた。
 詩集を編むことなど、これまで全く考えたこともなかった。単なる詩人といふ言葉にすら、気恥づかしさを覚える人間である。詩といへるかどうか分らぬ片々たる小篇を前にしてはなほさらのことだ。それをはねのけて、あへて一巻にまとめたのは、決して浅くはない日を編集者として接することが出来た草野、伊藤両先生に、稚拙ななりに私の作業の一片をでも御覧頂けたら、といふ考へに襲はれたからである。
(「あとがき」より)

 

目次

序 草野心平

相聞

  • 愛の化石
  • 記憶
  • 春の幻影
  • 終らぬ旅
  • 虹は今日も立つ
  • バランス・シート
  • ラ・セーヌ
  • 黒薔薇
  • 惜別

挽歌

  • おくる歌
  • 夕映えの雲に乗るマント
  • 旅の浮標
  • 還らぬ森
  • 待つ
  • 海への旅
  • 離郷
  • 涅槃
  • 生命の星

雑歌Ⅰ

  •  二十五時のシャンソン
  •  訪れ
  •  春
  •  爛漫
  •  春の生命
  •  イースト・リヴァーの暁
  •  ハドソン河にかかる橋
  •  秋
  •  いこひ
  •  願ひ
  •  戯画
  •  青衣

雑歌Ⅱ

  •  天を喰む
  •  無音
  •  出奔
  •  はぐれ蝶
  •  狂騒の譜
  •  極北
  •  謀反
  •  LUX
  •  祈り
  •  沈める町
  •  囁き

跋 伊藤信吉
あとがき


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