わが標べなき北方に 季村敏夫詩集

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 1981年4月、蜘蛛出版社から刊行された季村敏夫(1948~)の第2詩集。付録栞は一色真理「うずくまる歌」。

 

 そそりたつ崖に、冬の光が砕けている。氷りつく濃(こ)むらさきの空は、ほんの一瞬のようであった。しかしそのほんの一瞬のいのちを賭け、むらさきは自ら燃えつきていった。やがて背姿の向うから朝の光が溢れだす時、わたしの影は、いつもの雑木林をたどっていた。風化花崗岩がむきだしになった崖に、激しく砕け散っていたのは、あれはわたしの死体ではないのか。そんな幻影が胸に迫った。しかし、すぐに光も幻影も、朝の透明さに消えてゆくのであった。
 夜明け前の、ほの暗い高取山を歩きながら、コノママユケバ、俺ハキットコノ街ニ骨ヲ埋メルコトニナルナ……こう呟いた時、ひどい喪失の念いがわたしを襲ってきた。わたしは、愕然たるおもいにうずくまるのであった。やがて明けの明星が燃える時、わたしの胸に沈むこの一瞬の悲しみは、いきなり胸に突きささってきた。

 かつてわたしは、この街を何度も棄てようと試みた。今にして思えば。、それは必死の抗いであった。しかし結局ついに果たせず、わたしは父の突然の死により、言うならば猶予つきであった旅の途上より、いきなりこの街に引き戻されたのであった。もう二度とわたしは、誘われるままにおもいの街を描くことはできない。
 しかし何と明るくはなやいだ姿に変貌してしまったのか。海と山とに挟撃されたこの街は、異人館やら風見鶏やらで奇妙に明るくにぎわい始めていた。荒々しく、しかもさぶしい海彦も山彦も、もう何処を探しても見あたらなかった。強いられてわたしは定住の流れに自ら身をまかせるしか為す術もなかった。わたしは、自らの愚ろかしさを、この時いやという程噛みしめていた。光に、透明な光にてらされた海山(うみやま)のあわいで、わたしは道の辺の何でもない花々を精根罩めて愛でるしかなかった。声にも言葉にもならぬ断腸の念いが、雑木林めがけて笛を吹いていった。

 わたしにとり神戸は、愛憎の街であった。あの時代誰もがそうであったように、わたしの父もまた、敗戦後すってんてんになって北ボルネオのジャングルから帰還した。以来理由あって、郷里東北盛岡を追われ、北から南へ、いっきに流れこの街にたどりついたのであった。
 おもえば幼い頃、父は肩車してよくわたしをメリケン波止場に連れていって呉れた。びゅんびゅんと鳴る星条旗もさることながら、今もわたしの胸には、蒼い海の異国の軍艦と、紅毛碧眼の水兵たちが駆け巡っている。何よりも、水兵の腰にまつわりつく。ジャパニーズ売春婦の真赤に燃えるくちびるが、幼いわたしのこころを異様に奪っていった。そのときわたしは、神戸の何であるのかを明確に視てとってしまったといってよい。呪わしいまで悲しいような、しかもこわいような、そんな波止場の情景は、その後ながく胸に残った。空は鉛色に垂れ、風はやたら強かった。
 再び、そしてついに神戸へ舞い戻った時、わたしのこころはたじろいだ。言うを待たず、波止場の情景は一変していた。この街の何もかもが一変せざるを得なかった、と換言した方がより適切であった。このことはしかし、わたしには残酷なまで辛いことであった。紅毛碧眼の輩に己れの春を売った彼女らの真紅のくちびるは、街を色どる少女たちに、何の屈託もなく塗りたくられて、この街を更に明るくはなやいだものにしていた。ウルトラモダニズムよろしく、この街は激しく、外面のみが美しく過激に化粧されていたのであった。
 一九八〇年の二月から五月までの、この百余日の日々を、わたしは数年数十年のように過した。顧れば、これは決してオーヴァーではなく、わたしは<神戸>にまともに激突してしまったといってよい。棲ミツクナラバコノ街ノ何モカモノイブキニ、返リ血浴ビナガラノメリコマネバナラス。トドメヲ刺サレルノハコノ俺カモシレヌガ、俺ハコノ街ニトドメラサスマデノメリコムノダ……流れのさなかでわたしは、帰ることも戻ることもできない自分を見詰めていた。
 奇しくもそんな折、蜘蛛出版社主君本昌久氏に出会った。眼を細め、時に暗鬱に横顔を見せたかと思うと、いきなり「ぐっぐっ!」とか「げぇー」と唾(つばき)を撒き散らしながら、ざんばら髪をかきあげる君本氏に、わたしは次第に魅かれていった。わたしは、骨折でしみいるように痛む骨を抱きながら酒に流れていった。「ああ、この人におまかせしよう」酔いながらわたしは秘かにおもいはじめていた。君本さんほんとにお世話になりました。何から何まで有難う御座居ました。わたしはこれから水仙携え、親父の墓に酒をぶっかけにまいります。

 ああ朝の光が砕けている。かって「回帰と憂憤のはて」一冊を指し示してそれっきり沈黙してしまった友があった。遙かな友よ、君の瞼にうつる、あの頂きの青白い雪がみえるか。星雲渦巻く蒼い気流にのって、海からたち昇る水蒸気は宇宙を駆け巡る。さらに何千何億の夜と朝をくぐり、この蒼い気流は遙か彼方の山脈(やまなみ)に激しくふりそそぐ。眼を閉じることによって視ようとする友よ、ああ信じられるのは標べなき北方、山脈のとこしなえの雪ばかりだ。あちらの方から、こころの弱りを奪いにくるならば、ああよい? いくらでも呉れてやる。だから友よ、朝に砕けてわたしはおのれの激情のままに流れよう。それしか他に仕様がないのだから。
(「あとがき」より)

 

目次

Ⅰ 1976

  • 草帽子の歌
  • けものみちより
  • 六月の私信
  • 茱萸と夕焼け
  • 兄妹
  • 八月の庭にて
  • 冬へ

Ⅱ 1977

  • 晩春のおと
  • 部屋の片隅にて

Ⅲ 1978

  • 暮れ沼にて
  • 神戶遠景
  • 九月十日

Ⅳ 1979

  • 秋ニ契ク
  • Changeisgonnacome
  • 百度目の冬
  • 冬の巻にまぎれて
  • 冬の櫓催

Ⅴ 1980

  • 浅葱の空に
  • 菫の光
  • わが標べなき北方に
  • 染まずただよう
  • 藤の花
  • 常念岳ゆき暮れて
  • ……そして朝
  • 決着つかず
  • 無明ふたたび冬へ

あとがき

 

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