1968年3月、東京出版センターから刊行された山本政一(1929~)の第1詩集。
たいへんな詩集の序をひきうけてしまった。たくさんの詩の言葉が、前後左右をふりかえるひまもなく、一時に飛びこんできて、ぼくの頭がまるでマンドリンのように鳴り出すしまったのだ。ぼくはマンドリンの胴っ腹から、一つ一つの詩をとり出して、丁寧に音色をたしかめようとするが、作者は万華鏡のように言葉を変貌させるものだから、頭をひやす間もないくらいだ。
鯨のように重い山本政一がのっそり入ってくる。ぼそぼそ話し、ときどきけたたましく笑うこの無口な男の、どこにこれらの色ガラスの破片のような言葉がつまっているのかと、ぼくはふしぎに思うが、彼は何ごともなく、ばそばそとこどもや女房のことを話し、ときどきけたたましく笑って、また重たく帰ってゆくのだ。
山本政一のばあい、日常の下の方に、詩を入れるダブンダブンの袋のようなものがあって、彼は肥ったやわらかい指で、小さな言葉を道ばたから丁寧にひろっては、その袋に入れているのにちがいない。そして、そのときの無心な表情は、ふつうの生活様式からはじめからはみ出した孤独な大男の、ひそかなよろこびに満ちているような気がするのだ。いや、気がするのではなく、事実、このような嬉しげな顔に、ぼくは彼との対話の中でもしばしば出会ったし、また彼がいい本を読んだときや、いい絵を見たときの表情にしみじみ感じられたものである。彼はぼくが何気なく話しする言葉のはしくれでも、ひょいと面白さを感じると、すぐ小さな手帖をとり出して書きとめたりするが、そんなとき、何とあどけない顔になる男だったろう。ふしぎさというものは、神さまが彼にだけつくってくれたもののように、つねに世間というものからはみ出したこの男は、もの心ついた頃から、詩や絵だけでいっぱいになって暮してきたようだ。山本政一は、普通の勤めができる条件がありながら、決してそっちの方に顔をむけないのは、その詩の神さまがついているからで、下駄ばき、ジャンパーといういでたちの彼は、サラリーマン詩人では決して行けない世界の王さまだったからである。
彼の詩は、独自の意味づけや飛躍が多すぎるとき、目がチカチカするようだが、彼の観念は、たえず形、色、物質への変貌を目ざして、モザイクのようなイメージをくりひろげているのだ。暗喩のからみ合い、短いセンテンス、断片的な影像のモンタージュ、述べるということのできない吃音の飛躍……これらは彼のエネルギーのほとばしりであるが、作品の奥の意味を知らせるよりも、表わしたものだけが本質というふうな勝手気ままなところもあって、それがよく生きているばあいと、そうでないばあいとあるような気がする。絵も描く山本政一は、往々にして視覚過剰気味になるのだろう。ぼくは彼の詩を読みながら、逆にフランシス・ポンジュの作品を思いうかべたりしたが、短い作品のいくつかは、表現された物質感のもう一つ向うが見えてくるような思考の操作も必要な気がする。それほど彼の内にこもっているものは重いものなのだ。それは放浪であり、労働であり、戦争、革命であり、そして、同時に皮膚の下にひそんでいる性の鬱血のようなものである。それらは最初の方の、「鯨」「牛」や、後の方の、「パロタンの逆襲」「ゲリラ」「少年」「敗戦」「レスビアン」「夢」「教育」「ドブレ」などによくあらわれていて、ぼくにとってはかなしくなるほどである。
ぼくが彼の詩をはじめてみたのは、十年前の「屋敷町」であったが、このういういしいふしぎさを持つ作品の根にあるものは、今でも変っていないように思う。ロートレアモン、カフカ、ジュネ、イヨネスコ、ボルフェルトなど、彼は多くの人たちから滋養分を吸収したが、彼自身はやはり素朴にして単純、自分の詩をわからないという人に対しては、きっとびっくりして目をまるくするにちがいない。だからぼくは、ほんとうはこの稀有な作品集『動物詩集』発刊を、心から祝福してあげたいと思うのだ。
(「序/菅原克己」より)
目次
- 序
- 鯨
- 牛
- 愛
- 博物誌
- 屋敷町
- 死者
- 煽動者
- 戸口
- 恋唄
- 埋葬
- 革命
- フーテン党
- 擬音
- 壁
- 呪縛
- 夜の植物
- 自由
- 複製
- 贖罪
- 戦争
- 寡黙
- 淫劇
- 日常
- 犀
- ユビュ王
- 言葉
- 創世記
- 部屋
- アフリカ
- 告発
- 夜
- 死
- 葬送
- とりかえばや
- アメリカ
- パロタンの逆襲
- 陰翳
- 黙示
- 食事
- ゲリラ
- 海へ
- 黒と白
- 少年
- 戦後
- 敗戦
- レスビアン
- 夢
- 教育
- ドブレ