路地 菖蒲あや句集

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 1967年10月、牧羊社から刊行された菖蒲あやの第1句集。装画は桑田雅一。

 

 それは、随分遠いことのようにも思われ、つい昨日のことのようにも思われます。
 やっと戦争は終ったものの一面の焼野原、いったいこれから先どうなることかと呆然と過す日々でした。
 そうした昭和二十二年の春、同じ職場の女医、石川幸枝先生の首唱で工場内にささやかな句会が創られ、先生の熱心なおすすめと、手ほどきにより初めて私は俳句らしいものを作りました。会の指導者は岸風三楼先生で、それは、とてもきびしいものでした。一日の勤めを終えた空腹、しかも隣りの部屋からダンスのはなやかな楽が流れてくる時など、私の心はひそかにその方に傾き、いくたび俳句なんか止めようと思ったことか知れません。それがいつの間にか二十年の歳月が流れてしまいました。
 その間「春嶺」さらには「若葉」という大きな場で、親しく風生先生に師事するにおよび、俳句はもう完全に私の生活の一部となっておりました。歓びにつけ、悲しみにつけ、ひそかに打ち明け語るのは俳句でした。俳句こそが私のすべての支えとなっていたのでした。
 もっともそれには、風生先生は申し上げるまでもなく、風三楼先生はじめ多くのよき師友に励まされ導かれたからこそで、今更のように過ぎ去った日の迅さを想い乍ら、心から感謝致して居ります。

 私が生れましたのは大正十三年一月二十日、東京も場末の吾嬬町でした。母は五歳の私と、二歳の弟を残し力リエスで亡くなりました。ささやかな炭屋も母の死で店仕舞、それからの父は毎日のように酒を飲み、移り住んだ日のささぬ路地奥の長屋、しかも料金滞納からついに電灯も消された暗い部屋で私たちは食べるものもなく父の帰りを待ちわびては重なり合って寝る日が続きました。高等小学校を終えると同時に、日立製作所亀戸工場に勤めるようになりました。続いて弟も同じ工場に働くようになり、やっと、小さな倖せが近づいた様に見えましたが、やがて戦争が始まり、弟は志願して少年海兵団に行き、空襲で家は焼けてしまいました。住む所もないままに住みついた、八軒長屋の四畳半一間の家、父はその軒先に、炭俵を積んで炭屋とは名ばかりの炭屋をはじめました。
 その父も昭和三十七年二月二十四日たった十五日間入院しただけで、不倖つづきの一生もあっけなく終ってしまいました。胃癌ということでした。ただ父にとってせめてもの幸福は、死ぬ前に、弟に、可愛いい元気な働き者の嫁を貴い、男の子つづいて女の子の孫と共に、過し得た事だったと思います。
 私の俳句周辺がいかにも貧乏臭い路地と炭屋、女工に終始しているということも、こうした環境に明け暮れしているためで、本当は一日も早くこうした秋い路地から抜け出てきれいな大通りに出たい、又何時かは出て行けるかも知れないと心ひそかに願って居ります。ただ、みすぼらしい長屋ではありますが、みんな善意で何の見栄も飾りもない、人情の厚さというものだけは誇っていいと思って居ります。それ故に私はこれから先もこの「路地」から仲々抜け出せず、いっそのこと、もっと路地深く入って行き、その台所、さらには日々苦しい生活の人々の息吹きを、克明に書き続けてみたいという気さえして居ります。ただ学問、詩才もなく力及ばないことを嘆く他ありません。今後とも皆様の御指導を切にお願い申し上げる次第でございます。
(「あとがき」より)

 

目次

序 富安風生

  • 毛糸編む(昭和二二年~二八年)
  • 女工たち(昭和二九年・三〇年)
  • 炭団干す(昭和三一年・三二年)
  • 炭屋ひま(昭和三三年・三四年)
  • 路地の子(昭和三五年・三六年)
  • 炭屋の死(昭和三七年)
  • 童女抄(昭和三八年・三九年)
  • 路地の冬(昭和四〇年~四一年)

跋 岸風三楼

あとがき

 

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