晩祷 三木澄子

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 1998年7月、オホーツク書房から刊行された三木澄子の遺著。

 

 三木澄子が同人誌「文芸網走」に連載していた「晩祷」は、作者の死で未完に終っていた。一九八八年(昭六三)二月に第三回までを発表したが、それまでの原稿量は約三百枚だった。この年の春四月に急逝した時、机上に第四回目の原稿が二十枚まで執筆されていたが、未だ完成には至っていなかった。「文芸網走」は、八月に三木澄子追悼号を編み、連載第四回として二十二枚を掲載した。こうして「晩祷」は未完の小説となった。せめて、作者にあと少しの時間を与えて欲しかったと、「文芸網走」の同人はもちろん、多くの読者は無念の思いを抱いたのである。
 それから満十年を経た今春、私は連載四回分を集約しておこうと考えて作業を開始していた。三木澄子の原稿、蔵書などは、生前交流があった女満別町の図書館に所蔵されていたのだが、これを調査しているうちに、「晩祷」原稿の完結しているものが偶然に発見されたのである。発表原稿以外に、完成原稿が別にあったのだ。それが、なぜ資料の中に埋もれたのか。さまざまの経緯は憶測の域を出ない。
 発見された原稿を読むと、三木澄子は夫の死後三年近くで、二五六枚の「晩祷」を書き上げていたことが分かる。これを第一稿として、推敲したものを翌一九八六(昭六一)年から連載を開始していたのである。同人誌の発行は間遠であり、三木澄子自身も心臓疾患のため入退院を繰り返していたので、発表は遅々として進まなかった。第一稿があったのだから、一挙に掲載することも出来たはずなのに、三木澄子はそれをせず、入念な推敲作業を行なっていたのである。そのことは今回の発見原稿から十分に想像できる。だからと言って、第一稿は習作というものではなく、原稿用紙の文字に乱れもない。三木澄子の作家としての執念は、完成度の高い作品を目指して格闘していたのである。
 今回、発見された原稿のうち、第四回の未完部分に引き続くと思われる部分を含めて掲載することにした。プロットの上でつながりをやや欠くが、およそ六十七枚を追加することにした。未定稿の発表は作者の意思を損なうかも知れぬというおそれもあるが、完結に至る内容は作品の価値を高めているばかりでなく、「晩祷」という作品にとって、夫の急死に至る部分は不可欠であると判断したからである。
 三木澄子が世を去ったのは、十年前の一九八八年(昭六三)春のことである。街の喫茶店でカウンターの椅子から崩れ落ち、二度深く呼吸しただけで息絶えた。壮絶なほどの卒然の死であった。七十九歳である。
 三木澄子は、一九六五年(昭四〇)に北海道に旅をした折、網走の自然に深く魅せられ、一九七四年(昭四九)に会社勤めを終えた夫と共に、網走市呼人に移住した。
 三木澄子の名は、一九四一(昭一六)年、第十三回芥川賞候補作品「手巾(ハンカチ)の歌」でデビューした作家であることよりも、戦後のジュニア小説の世界で御三家といわれるほどの大家であったことで知られている。数多くの作品を残し、熱烈な読者を獲得した作家が、なぜ、ジュニア小説を捨てて東京を離れたのか、このことはまだ未解明の部分が多いが、それまで長い中断であった純文学に執着していたことは想像に難くない。
 網走に移住して十四年の間に、私どもの同人誌「文芸網走」の特別会員として、「喪失」「幻」「菜の花」「手袋」などの作品を発表するとほかに、網走の四季を謳歌するエッセイを書き続けるなど、盛んな創作意欲を見せていた。また、網走市女満別町内の俳句会に夫妻で参加したりしていた。
「晩祷」は、網走移住以来の夫婦の愛と葛藤を赤裸々に書き表わし、老いに対して正面から向きあった小説である。六年前に夫は急逝していた。かつて証券会社の役員だった夫は、戦前から企業戦士ともいうべき生活を送っていた。それが職を退き、都会を離れての網走湖畔に移住した。しかし、山暮らしの孤独のためか、老人性欝病を抱え込み、やがて突然に世を去った。
 三木澄子は夫の死後、網走湖畔で孤高の生活を送りながら、それまでの夫婦の感情、と軋轢を、つぶさに明晰に描写していった。かつてのジュニア小説の読者から見ると「晩祷」の内容と筆致は驚くものがあるはずだ。これだけは書かねばならぬという作家の業と執念が伝わってくる。
 作者の急逝によって、中断したと思われていた作品が、夫の自死の情況と心理が描写されて、ここに完結した姿を現したことは、三木澄子の文学にとっても、北海道の文学にとっても貴重な財産となった。
 三木澄子の文学とは何だったのか、人みなが対峙すべき老いとは何かを、作品を通して読者に提示してみたいというのが、「晩祷」発刊の意志である。三木澄子は、網走十四年の住いの中で、文学を通して静かに人間の有り様を語り、私たちに多くの刺激や励ましを与えてくれた。私たちは再び三木澄子の声に耳を傾け、蒔かれた種を育てるために、地方での文学活動を再開するつもりでいる。
(「「晩祷」の発刊にあたって/菊地慶一」より)

 

目次

  • 晩祷
  • 三木澄子年譜
  • 晩祷に出会って 大島宣博
  • 「晩祷」の発刊にあたって 菊地慶一



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