1977年11月、思潮社から刊行された岡田隆彦の第7詩集。表紙はジャスパー・ジョーンズ作"According to What"。
ほんのわずかでも母国を離れると、普段の自分を他人事のように突き離して見ることができる。――何とあくせく日々をすごし、それもわれながら殊勝なことに、一生懸命日々とつきあっている。それがそのまま、さまざまな姿かたちの詩となってあらわれ、この一冊に収められているといったふうだ。どこでも、何らかのクライテリアを探し求めているようにみえる。
ニューヨークに少しばかり住んでから、ヨーロッパを一月余り旅行しただけでも、日本の現代詩が総じて過度に感傷的であると思われてくる。過度にそうであるなら、その分だけ何かが欠けているのだ。
ヴェルレーヌとランボオにゆかりの深いブリュッセルの街を散策し、中央駅近くの、ひどく賑わう迷路のような一角で夜食をとるとき、外の道端にある椅子にすわるつもりが、自動的に脚が動いて中に入り、ガラスごしに道の雑沓を見ることになる。突差にわたしは自分がまぎれもない島国の日本人だと思ったなしくた外ちのた。大袈裟になったついでにいえば、欧米の人々の雑沓のなかに身をさらしながら、自己自身を保とうとしているが、わたしたちはえてして頭から自分を保存しようとしているのではないか。
この、均整のとれた美しさを示す小じんまりした街で場違いな二人の詩人が、かつて、安らぐより苛だったことは想像するに難くないが、思えば、わたしたちはかれらの狂気をスタイルにおいてだけ継承しようとしているところがある。だとすれば、もとよりそれは狂気そのものからほど遠いから、この高度成長経済裡の生産者と購買者にはっきり分別された社会では、実際に見る通り、詩人のたたずまいが、(他人もガラスごしに人を見ていると思い込んでいるから)物を究めたり何かを発見しようとすることに先んじて、ふるまうことに専念し、こうして演劇的になってしまっているのも宜(むべ)なるかなである。それはいま流行の、芸術の拡張に似ているかも知れなくても、詩がみずから求めて得るところではないように思われる。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ
- 言葉と現実
- 緑が森の樹陰にて
- つかめないものが……
- さかのぼる
- 間諜に深い愛はいらない
- 飛ぶまえの
- 梱包される通過
- きのうのサラダ
- 碇泊しているのか どこに
- かもめの舞うCorpus Christi
- 悪夢と薄明
- 強姦
Ⅱ
- かたちをつくる風
- The wind making a form
- 心のなかへ雪が降り
- Snow in my mind
- 魂に浸み込む風景
- Landscape in to soulighet
Ⅲ
- いまは時刻なし
- 蒼穹の鏡
Ⅳ
- 夢を刻みつける痛覚
- 束の間の幻影
- 線の散歩者は行方知れずに
- 物が物である時、その時
- 浅瀬をわたるシンドバッド
- 何によって
- According to What
あとがき