麻生知子 麻生知子詩集

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 2003年8月、私家版として刊行された麻生知子の遺稿詩集。編集は安土忠久と各務麗至(詭激時代社)。

 

 本書は昭和五十五年「現代詩手帖二月号」所収の『泥眼』より、平成十四年十月刊「未開の」の『もどろぎ』に至る作品を網羅した。その詩作期間二十二年の永きに亙る。先行する詩集『つうのための断章』昭和五十四年一月刊、『花であること』昭和五十七年十一月刊に少なからぬ関わりがあって、その後安土さんと度々話しているうちに、ふたむかしもみむかしも前の嘘のような冗談を果たすべく膨大な詩篇を纏めることになった。
幸いに、作品掲載の雑誌は殆ど手元にあった。どうしても見当たらない詩誌や、安土さんとの詩集の計画を、四国の二・三の仲間に呼びかけた。「白翔」「木馬」「鯛」の頃の、少しは私も交流のあった麻生知子の仲間である。
本詩集収録外に活字になっている詩作品は現在のところ無いと判断しての編集である。
 とは言え、『からまつの林のための試行2』『同グ』は欠番。思うところがあってか無くてか、意識してとばしたとも考えられず、原稿ので、後日発見あるかも知れない。
しかし、重複するⅢと3と言うようなところがあったり、同連作も発表誌によって英数字と漢数字等の混在がある。改行数や記号の位置の統一がなされてない。聞くところによると、詩誌は、出すつもりこそあったが、詩集のことはあまり考えてなかったとのことであった。
 いつか二人で出そうと話していた、『憂』という誌名が脳裏に甦ってくる。「今ひとつね」と言いながら、私が広げた江戸期の木版辞書『字彙』から題字はコピーするはずだった。
 本詩集を編集するに限らず、麻生知子は難題であった。「はい、宿題」久しぶりに――これ読みなさい、と、行き詰まった折に的確に指標を与えてくれた昔の感覚を思い出している。
 とは言うものの、初出の体裁を定稿とする以外思い浮かぶ編集方法の熟成も飛び抜けた構成も装丁も出来ない儘、一部便宜上の配慮を余儀なくされた。
願わくば、かの日の二詩集同様、素朴な手作りの風合いが出せればと思っている。-目次を設けなかったのは、先の安土さんと意思の疎通があってのことであり、この一巻を麻生知子のひとつの連作作品としたかったからである。
 人間の玄奥根源にある遙拝と漂泊の心と、秘めた内面を揺り動かす、――「ものを作る環境がいいのよ」と、安土さんの吹き硝子に寄せる白洲正子氏の言葉を待つまでもなかった。語り出せば際限ない。取り留めもなく走り出しそうである。『消失点』『解答不能』に関してと、『もどろぎ』と言う題が決まった頃に対峙して言葉を交わしたけれど、……しかし、今は言葉もない。
 さて、連作に関する文章を、体裁を整えるように最後に収録したが、他意は無い。初出検索一覧の作品名番号等はその儘の表記に従った。
 この一巻によって、麻生知子は高山に定着する。四国がひとつの故郷であったように、高山もまた麻生知子自らの原景を語るに似つかわしい故郷であったのだ。
(「戛戛 編集ノート/麗至」より)

 

 

 昨年夏、麻生知子は、ガンで亡くなった。手術後わずか七ヶ月めの死であった。
 この世にいなくなった人に会いに行くためには、自らの死を通してしか叶わないことに最近気づいた。けれどものを創り出す行為は、過ぎゆく日日の死を自ら生きることでしかかなえられないことも僕は知っている。
 この詩集は、麻生知子が生涯にわたって費やした膨大なエネルギーとつりあうほどのものであるのかどうか、僕にはわからない。ただ猛烈な内圧に苛まれつつ、地中深く、にえたぎるマグマのようなもの、見とどけようとしてあがき、またあえて見ようとはしなかった世界、の底から、わらわらとあふれ出した言葉たちの堆積、それが彼女の詩であったと。
 詩集を出すにあたって多くの人に助けられた。「未開」の川口昌男氏、「すみなわ」の西村宏一氏、両詩人からは、いく度もお手紙をいただき、はげましていただいた。一人でこの詩集にとりくんでくれた俳人の各務麗至さん氏の存在なくしてこの詩集の出版は不可能だった。
 これは、あなたの「作品」のようなものだと僕は思っている。そして最後に、麻生知子の死にさいしてたくさんの人からなぐさめと、はげましの言葉をいただいたこと、心より感謝申し上げます。
 から松林のそばに、あなたが植えた、たくさんの桜の木が今年も見事な花をつけた。あの、かもしかがまた、春蘭の花を食べに来ている。しょうじょうばかま、花わらび、桜草、すみれ、来年もそのつぎも、ここにこうしてありつづけるものたちにかこまれて、ぼくたちはくらしている。
(「あとがきにかえて/安土忠久」より)

 

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