1980年5月、雁書館から刊行された光岡良二の第3歌集。装幀は小紋潤。
歌集は歌だけでよく、どんな文もつけ加えず、ただ作品だけを黙って差し出す、というのが、私の本つくりの年来の憧れであるけれど、そのような幸いは、名もない歌つくりの私には、まだ当分、いや永久に恵まれそうもない。
縁あってこの歌集を手にしてくださる読者のために、最小限の自歌自注のことばだけは添えなければならないと思う。が、いざそうなると、もともとは軽薄で、おしゃべりな私のこと、ついつい抑えられずに、つまらないことまで口走ってしまいそうな不安もある。どうか、うまく、めでたく申し納められますように。
一九五八年に最初の歌集『深冬』を出し、六八年に『古代微笑』を出した。どちらも新書版の小さい貧しい本であったが、とにかく出した。だから、この歌集は私の第三歌集ということになる。
内容を三部に分けたうち、「雪の皿」と「漂泊者」は、前歌集を出した以後の十二年間の歌を、だいたい制作年次に沿って編んだものだが、その間に作歌を中断した時期が三、四年もあり、歌数はまことにすくない。
発表誌を言うと、「雪の咀」中の「ゼロックス」以下が「未来」に参加してからの作品であり、そのまえ「幼瞳」までの六章、および「わがソニヤ」のほとんど全章が、以前に所属していた歌誌「勁草」に載せたものである。
第三部に当る「わがソニヤ」は、ずっと古い、若書きの歌で、最初のあたりは三十年も昔の作であり、「わがソニヤ」は言わば『深冬』拾遺といった集である。なぜ、そんな古い歌をここに収めるのか。わたくしごとを、ここで語らなければならない。
第一歌集『深冬』を出したのは、私が八年ほどの別居の後、妻に帰って間のない頃だった。私は、妻の心に深い傷をさらに負わせるにちがいない、その直前の他の女人への愛にかかわる歌を全部消して『深冬』を編んだ。せめてそんな形で、妻に優しくありたいと思った。そういう理由と経緯で「わがソニヤ」の初めのほうの数章の歌篇は陽の目を見ないで、置きざりにされて来た。
今になって読みかえして見ると、これらの作品に、とにかく偽りのない私のある時期の生きの姿が、歌という形象の中にとどめられている。今は永遠な平和の中に棲んでいるであろう妻も、微笑して私のわがままな甘えの仕儀を眺めているだろうと思われ、ここに収めることにした。「わがソニヤ」は読者など構わず、私ひとりのために加えた拾遺集であるかも知れない。
「わがソニヤ」の中では、一篇「白堊の塔の下に」だけが、「勁草」ではなく、中野菊夫氏の創刊まもなくの「樹木」に載せられた。一九五三年夏に「癩予防法闘争」の名で知られる、ハンセン氏病患者の組織的闘争があり、全国組織の事務局長として私はこの闘争に関わった。その経験から生まれた作品で、闘争が終結した直後にほとんど一晩か二晩で作り上げ、「歌ができたら何時でも送りなさい」と言われていた中野さんに送り、「樹木」の表紙裏に、特別寄稿作品として全部載せられた。状況が作らせた、私の歌の中では毛色の変った歌で、しかしやっぱり私の歌らしい主情性が言われるであろうか。
罪ふかい愛が終り、そのあとの底のない空虚をうずめるようにして、私はちょうど際会した状況の中に飛びこんで行った。闘いの中でも、私の心緒はもっぱら主情的であったはずである。
『水の相聞』という題は、歌集を編みながら、つい夜明かしをしていた暁がたに、まるで空から降って来たかのように私に訪れた。私はたちまちこの題が気に入り、迷わずにこれに決めた。
妻の喪の歌が、歌もいちばん多く、ほとんどそれが中心の主題であるようなこの歌集に、一見そぐわない標題のように見えるかも知れない。だが、この歌集の素稿を読み返してゆきながら、私は、挽歌と相聞とが、ほんとうは根を一つにした人間の情念の声であることを、つくづくと感じ思った。イザナミを見たく、会いたく黄泉の国にまで降ってゆくイザナギ――たとい、そこで、辱かしめられたイザナミの怒りと復讐に逢うことが判っていたとしても、イザナギはやはりそうしただろう。そこにあるのは、挽歌ではなく、相聞のすがただ。
わるくち屋の田井安曇氏は、この歌集、相聞ではなく、相聞たちとした方がよいと揶揄する。あるいはそうかも知れぬ。ことほどさように、この歌集の歌々から女性の影が揺曳してくる。
明石海人より十年遅く、伊藤保や津田治子と正確に同時代に、つまりまだハンセン氏病が不治で、隔離が国の政策であった戦前暗黒期に発病した私の前には、たといまだ軽症であったとはいえ、事業や、権力や、地位名声や、家庭子女の幸福など、世の男という男が血道をあげて追求するそれらすべてのターゲットは、完全に閉ざされていた。学問の静謐な充足も、ファウスト博士がおぼえたそれのように、灰色に見えた。あとにいったい、何がある?いのちを燃やして為し得ることは、女人を恋うることぐらいしかないではないか。そんなふうに、開きなおっていたわけではない。人生晩年の今、自己省察のこころでふり返って見て、そんなところであった、と思うのである。
はじめに危ぶんだとおり、はたしておしゃべりし過ぎてしまった。もう沈黙しなければならない。歌そのものについて言うと、「未来」に来てからこそ、したたかにしごかれているが、その前は甘やかされて、作りたいように作って来た。自分ではよく判らないが、「光岡節」というようなものが出来あがってしまっているのではないかと思う。この歌集作品に、鉄槌のような厳しい批評を得たいと希っている。近藤芳美さんの励ましをはじめ、編集校正関係の「未来」の友人たちの、PTAよろしくの賑やかな揺すぶりの輪がなかったならば、なまけものの私は、到底いま、まだ歌集など出す気にはならなかっただろう。それらの多くの人々の友情に感謝したい。
田井安曇氏が、いい文章を書いて下さった。私の歌の在り処の最深部を突き刺した、痛い、痛い批評であるが、それとともに、また、「未来」を包み「未来」を越える、ひろい歌のコミュニティへの、好意に満ちた紹介状でもある。心からお礼申し上げる。
(「あとがき」より)
目次
・雪の岨 1968-1975
・漂泊者 1976-1979
・わがソニヤ 1950-1967
- 冬の朝光
- 夕明り
- 舞台日誌
- わが片隅
- 青年学級
- 備前長島
- 胸飾り
- 白聖の塔の下に
- 風塵
- 烏城
- 布目瓦
解説 田井安曇
あとがき