鋼鉄の火花は散らないか 江島寛・高島青鐘の詩と思想 井之川巨編

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 1975年3月、社会評論社から刊行された江島寛と高島青鐘の詩文集。編集は井之川巨

 

 戦後三〇年の革命運動の歴史は、「断絶」と「分裂」の過程であった。とりわけ五〇年代後半において、革命的前衛としての「党」が崩壊・解体していく悲惨さを労働者、人民は眼のあたりとしたのであった。一九六〇年の闘いを契機として、七五年の今日に到るまで、日本の人民は革命的政治前衛としての「党」建設にむけて、血みどろの闘いを継続してきた。だが不幸にも、わずか三〇年の間に革命の伝統はずたずたにひき裂かれてきたのであった。
 米軍占領下にあって朝鮮戦争へ突入し、その兵站基地化した状況に乗じて、日本帝国主義は復活し、その体制と権力の基礎的構造を確定したのである。五〇年代初頭のその尖鋭な現実の前に立ちはだかり、自から革命の課題を担っていった労働者運動があった。この詩集に収められている江島寛・高島青鐘の二人の詩人は、その歴史状況をひきうけ、自からの生命を賭して「銃口を胸でふさぐ」(突堤のうた)が如くたたかい、遂に倒れていった戦士である。
 詩の背景となっている五〇年代前半期は、レッドパージや、下山・三鷹・松川等の事件に象徴されるフレームアップ弾圧をはねかえし、占領軍と日帝権力の苛酷な支配と弾圧にもめげず、革命を死守する労働者運動が存在した。それは「党」官僚の文化人対象の「文化政策」とはかかわりない運動であったといえよう。下丸子文化集団(後の南部文化集団)に依って『詩集・下丸子』『石つぶて』を生みだしていった労働者たちは、「文化工作者」としての自覚に立ち、労働者人民による文化創造をめざし、それを挺として革命的労働者運動の再建・構築をめざして活動していったのである。『井之川巨詩集・詩と状況おれが人間であることの記憶』所収の資料によれば、下丸子文化集団を突破口として、東京南部(大田・品川・港・目黒区の一部)には今確認できる数だけでも百の文学サークルが存在し、実数はその二-三倍に達したという。レッドパージで職場を奪われた労働者が中心となって、労働者文化(文学)運動は未曾有の組織を生みだしていったのである。
 江島・高島・井之川の三人の詩人は、これらの運動の秀れたオルガナイザーであり、理論的リーダーであり、アジティターであった。では二十年余を経た現在、この二人の詩人の作品集を改めて刊行する意味はどこにあるのであろうか。
 編者井之川巨は、文学活動へ復帰するためすでに生活の糧を得るための仕事を捨てた。背水の陣をもって「戦線」復帰をはかったのである。その第一歩として自己の二十年余の軌跡を示す詩集を編み、つづいて江島・高島の遺稿集を編んだ。彼が詩壇的「詩人」となるためにではない。彼にとって詩人とは、詩を通して解放の戦線を構築するオルガナイザーのことであり、かつて五〇年代をたたかい貫いた如くに、革命的労働者文化運動を組織する工作者詩人として、七〇年代の戦線に復帰したのである。おそらく江島・高島の故霊が井之川巨にそのことを要請したのであろう。そして、江島・高島の詩が今も呼びかけているのは、「叛乱の旗をひるがえせ!」(突堤のうた)である。
 誰がその呼び声を圧殺しているのか。すでに転向し崩壊し去ったはずのものが「革命」や「党」を潜称し、歴史を改竄し、革命の伝統を抹殺しようとしているのである。
 一九七五年の今、死者は自からの詩をもってそれを告発し、その鉄面皮をはがし、真に革命的な労働者運動復権の旗を掲げんとしている。この一冊の詩集は、死をもってあがなった真実の叫びであり、自からの血をもって染めぬいた「赤旗」である。
 井之川巨はその「旗手」として立ちあがった。あたかも一九七五年―まさに革命的前衛の進撃が始まらんとするときにである。
 畏友星野秀樹、すなわち詩人江島寛との交友を思うならば、私自身が遺稿を編むべきであったかもしれない。しかし文学から遠く離れ、革命家としての資格を持たず、一介の僧侶として生きることを決断した私には成しえぬことであった。井之川巨の戦線復帰によって、詩集を刊行する真の「主体」を得たのである。この詩集刊行は、五〇年代をなつかしむ者の仕事でもなければ、私的センチメンタリズムで編集されたものでもない。
 二人の詩人の魂を「旗」として、革命的労働者文化運動を復権せしめ、組織し、革命戦線を構築するための行動宣言として刊行されるのである。
 江島寛、高島青鐘の故霊、もって銘ずべし。日本労働者の「旗」として永遠にはためいてあれ。

(「序・死者の掲げる「旗」は進撃の合図――五〇年代・革命的労働者文化運動の軌跡/丸山照雄より」

 

 一九七四年、暑い夏の昼下がり、かつての南部文学集団の仲間が三人、目蒲線鵜ノ木駅に降り立った。六郷土手近くの北辰電機社宅に高島青鐘を訪ねるためである。しかし、見覚えのあるバラック造りの社宅は影も形もなかった。ようやく尋ねあてた元北辰電機守衛金森重郎氏の奥さんに聞くと、こうである。社宅はもうとっくに払い下げられ、個人住宅として改造されたので、昔の面影はまったくないこと。高島さんは十五年前に死んだこと。一人娘の梢ちゃんは施設にあずけられたこと、などである。三人は息をのんで聞き、予想が的中したことに胸を痛めた。
 それから三人は、田園都市線北千束駅近くに江島寛の姉さんを訪ねたが、あいにく留守で会えなかった。その訪問も、ほぼ二十年目であった。
 翌日ぼくは、金森さんに教えられた鶴見の施設へ電話してみた。梢ちゃんはそこにもいなかったが、親切な寮母さんの骨折りでやっと現住所を突きとめることができた。横浜郊外の陽当たりのいい団地であった。五階まで階段をのぼると、姓を改めた梢ちゃんが、小さい男の子を抱いてでてきた。ぼくが知っている梢ちゃんは小学校三年生くらいだったが、面影はあった。梢ちゃんはぼくのことを全く記憶していなかった。しかし、幸せそうな若いママさんぶりを見て、ぼくはたいへん嬉しかった。ただ残念なことに、高島青鐘の遺稿はなに一つ残っていなかった。それは別に梢ちゃんのせいではなく、高島青鐘とはそういう人だったのだろう、と思った。
 江島寛の姉さんとはその後、国電田町駅を降りた姉さんの職場付近の喫茶店であった。はじめぼくを判らないでいたが、すぐに思い出してくれた。秀樹君(江島寛の本名)の話をしているあいだ、姉さんはときどきハンケチで目頭を押さえた。北千束の寮が火災にあって、秀樹君の遺稿や蔵書がすべて灰になってしまい、返すがえすも残念だといった。(実をいうと、ぼく自身もわが家の火事で江島寛の草稿の一部を焼失してしまったのだった)焼け残ったものの中に、わずかに写真と書簡があった。
 姉さんから住所を聞いて、甲府で小学校の先生をしている江島寛の兄さん(星野茂樹氏)を訪ねた。秀樹ちゃんが二十年ぶりで帰ってくるような気がして――といって、家族中でたいへんな歓迎ぶりだった。江島寛が身延中学時代に書いていた文芸誌を二、三探し当ててくれたのがありがたかった。
 江島寛が身延高校を放校になり、上京して小山台高校夜間部に在籍していた頃、ぼくらと一緒に文芸部を構成していた仲間に岡安政和がいる。現在、北辰電機労組の委員長をしている。その後、ぼくらは下丸子文化集団に参加するが、ここに高橋元弘がいた。高島青鐘とともに北辰電機のレッドパージ組である。この二人がかけがえのない資料を大切に保存し、それを提供、いろいろ助言してくれたのがありがたかった。
 江島寛の晩年(一九五三―四年)、集団を構成していたのは主として江島寛の学友たちであった。身延高校出身の浅田石二、丸山照雄小山台高校出身の玉田信義、望月新三郎、井之川巨らである。そのほか三菱重工のてらだたかし、糀谷の入江好太郎、古川橋の佐藤ひろしらが、いずれも労働者詩人として秀れていた。高島青鐘は病床にあり、半身不随の状態だった。下丸子文化集団が南部文学集団となったのは、江島寛の死後のことである。
 一九五〇年代の前半は、いわゆる極左冒険主義の時代であった。党は主流派と国際派に分裂し、文学戦線は新日本文学と人民文学に分裂していた。しかしぼくらは、そのことにさして関心を持たなかった。文化工作者としてサークルを育て、書き手をふやし、自らも支配者を撃つための精巧な弾丸としての詩をつくることに余念がなかった。その闘いの中で江島寛も、やがて高島青鐘も倒れたのだった。この闘いの記録が日ごとに風化し、ぼくらの視界から遠ざかってしまうことに焦りを感じつづけてきた。いま、ぼくらを取りまく周辺に、いちじるしい言葉の荒廃、詩精神の枯渇、真に民衆のための文化が退廃する様相を目のあたりにするとき、死者にもう一度甦ってもらう必要を感じた。
 とはいっても、すでに資料の大方は失われている。江島寛にしろ高島青鐘にしろ、ここに収録した量に倍する作品を書いていたに違いない。それが無念でならない。今はこれだけでも収録できたことを率直に喜び、感謝すべきなのだろう。前記の方々をはじめ、身延の先輩や友人たちへ、北辰電機労組の人たちへ、東京南部の盟友たちへ。
 とりわけ、一個のコッペパンを分けて食った仲とはいえ、浅田石二、城戸昇、丸山照雄の三君にはお世話になった。また、売れない本を覚悟で、ぼくの前著に続いてふたたび刊行を引き受けてくださった社会評論社の佐藤英之、松田健二の両氏には、感謝の言葉もない。
(「あとがき/井之川巨」より)

 

目次

●江島寛集

Ⅰ 鋼鉄の火花は散らないか

  • エアプレン星座
  • パンク
  • 牡丹の花
  • 終曲
  • 異教風景
  • 砂場
  • 冬の光
  • 旗のない日
  • 五人を工場へ
  • 三百の怒りを
  • 特殊管理地帯
  • かたわもの
  • ふけいきなつらでいられるかい
  • 正月じたくの歌
  • 日ようもつぶした
  • もしもあの人がきたら
  • この日 多喜二へ
  • 生活模様
  • 心ゆくまで
  • クレインの下から
  • 巨済島
  • ラッパ
  • 手にもたなかった石
  • きかせてくれ
  • てがみ
  • 便所通信
  • 一日
  • 岸壁
  • 診察
  • 少女におくるノート
  • 目玉
  • 太陽くばり
  • ビラくばり
  • きよぞう
  • おれが一人だったら
  • ”公明選挙”宣伝
  • 熔接の火花はちらないのかぁ
  • あくびの出そうな会合に出た娘
  • 突堤のうた
  • 煙突の下で
  • 夜の別れ

Ⅱ 小説・エッセイ

  • 太極旗
  • 集団と個人
  • 『下丸子通信』発刊のことば
  • 壁詩について
  • 「わからない」について

Ⅲ 記録

  • 秀樹ちゃんを偲んで/星野幸子
  • 倒れた同志のために/井之川巨
  • 同志江島寛追悼詩/井之川巨
  • 沼/苦地雄
  • 君の呼ぶ声がする/丸山照雄
  • 切断と接/高斉忠男
  • 江島寛詩集刊行にあたって想いおこす事など/井之川巨
  • 獄中詩集と江島さん/野口清子
  • 二つの詩と江島寛のこと/浅田石二
  • 抒情詩人江島寛/井之川巨
  • 江島寛覚え書/井之川巨
  • 江島寛詩集補遺の解説/井之川巨
  • 江島寛の四年忌を迎える/浅田石二
  • 散弾銃をもつ守衛/染谷孝哉

江島寛年譜
あとがき

 

●高島青鐘集

Ⅰ 埋火

  • 焦躁
  • 工場の神経痛
  • 歴史はくり返す
  • 二つの世界
  • 夕餉
  • 火星
  • 太陽の冷却
  • 玉蟲色の寮
  • 林檎を食う
  • 将棋
  • 一九五〇年一月一日の東京の朝
  • 平和を蝕むもの
  • ニワトリの食糧難
  • 葉緑素
  • 弱虫だった一九三七年
  • 鬼界ヶ島
  • クジを切る
  • 破調
  • 「戦火の彼方」と「平和に生きる」を観る
  • 吐血
  • バリケードのある中学校
  • 想出多き私の豪華な結婚式
  • 公主嶺の晩秋――一九三七年
  • 慶源の朝(一炊事兵は叫んだ)
  • 薬のきかなくなったハイド氏
  • 糸車
  • 無人
  • アチャラカ芝居のエキストラ
  • 風車
  • 石油ランプ
  • 燐光
  • 西の空
  • 六月の朝
  • ペギーの死
  • 下丸子
  • 母をみつめて
  • 私はすまないと思っている
  • 花のない死と朝
  • 合併症
  • 正月の晴着
  • エビトリ川
  • 生霊
  • いただき
  • ニセ札つかい
  • 黒人兵
  • 埋火
  • 同志Hの決意
  • 山崎さん
  • 病床断片
  • 大部屋にいる生保の患者たち
  • 崩れゆくヒカリモノ
  • 一九五三年六月一九日、夜のアメリ
  • おれ達のものはおれ達のもの
  • 君の手

Ⅱ 記録

  • 壁新聞できたえられた表現力/安部公房
  • 高島青鐘詩集によせて/井之川巨
  • 北辰電機労組機関紙「高島青鐘特集」抄
  • 貧乏だった高島さん/対馬幸光
  • 無名戦士の墓にねむる高島さん/山崎良一
  • ともに闘い傷ついた高島さん/高橋元弘
  • 父としての高島青鐘/伊勢稍

高島青鐘年譜

 

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