1989年11月、脈発行所から刊行された与那覇幹夫(1939~2020)の詩集。沖縄現代詩文庫3。装幀画は城間喜宏。
人は状況を生きるしかないが、状況に呪縛されるのはまた愚直であり、私はその愚かな山羊にときどき絶句する。それと云うのも、かつて私は、ある断念と引き換えに、文学の領域に足を踏み入れた。(おこがましくもブンガクと表記したが、それは当時の状況に由来する)そのため敢えて才能とは相談なく、己をどう励起するかに賭けた。だが、己の鞭打ち方も才能の内、と思い知ったときは、すでに<ミイラ>となっていた。しかし、いかなる状況ゆえの選択だったにしても、以来、揺々とそこいらを彷徨っている様は、痛ましくも愚直であり、私はそれに絶句するのである。なお<ある断念と引き換えに……>と言ったが、それは私が中学二年の冬、父が亡くなり、進学どころか下男の話さえ出て、その支えを文学に求めたいわれである。
ところで私には、主観とか客観とかいう二元論的認識に徹頭徹尾、背を向け、あたう限り主観も客観も振り捨てた視線を対象に注ぐ一匹の梟が、何時からか宿ってしまった。そしてその梟は「例えば己の存在にしても、主観客観を総動員したとて、出自の原初的契に立ち会うひとは叶わず、認識という擬似的現場の確認に終始する。そう、対象(存在)は何時も認識を強要するかのごとく主客以前に出現し存在する。ならば如何に解読するかという装置は対象そのものが抱えている」と、嘯くのだ。そのせいか私は、状況に全く興味がなく、状況を超えた<存在>だけに興味を持つ生き物となってしまったようである。赤土の恋で「おおとぅりぃてぃ・おおみぃ」と、ただ空を見ていたように……。
しかし、状況は状況の累乗として移ろい、人の在りようはまた、人+状況の累乗のそのまた累乗であれば、状況への回避は即己への回避と同義であろうか。だが致し方ない。私が状況を厭うのは、小さな小さなかつ不毛な島に生まれた原状況が、状況をつねに呪縛する檻のような存在として原意識に宿ったのかも知れない。そしてその原意識はもはや資質とさえ呼ばれよう。愚かだが私は私を引き受けざるを得ない所以である。
状況の呪縛といえばいまひとつある。私は「リズムは情念を包括する。ことばはその同伴者にすぎない」と何時の間にか思い込んでしまったが、それもまた宮古の「神歌」に見られるように、リフレインあってはじめて<ことばが立つ>島空間に生まれ育ったゆえであろう。ホーイ、飛べ梟!
(「後記」より)
目次
詩集<赤土の恋>から
・赤土の恋
- 序詞
- 天空
- 青の周辺Ⅰ
- 死骸(みいら)の海
- 天魔
- 青澄(おおみゅう)
- 止った時間
- 呪文
・赤の周辺Ⅰ
- 化者(ばけもの)の掟
- 明るい地獄
- 沖縄世(じごくゆ)
- 青ざめて青
- 等級
- 白い雲
- 難題
- ちょろちょろと
・青の周辺Ⅱ
- 狂い台風(かぜ)
- 青千里
- 上味い毒
- 能面
・赤の周辺Ⅱ
- 命ん織って
- 土くれ
- 柘植の櫛
・起承転々
- 諸行無常
- 差別の構造
- 巡る春
詩集<風の言ぶれ>から
・風の言ぶれ
- 序章
- 白い町
- 交合
- 先島
- 仏桑華
- 風
- 梯梧
- 異母神
- 魂立ち
- 残
- ホワイトホール
解説 知念榮喜
後記