武尊の麓 江口きち

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 1939年4月、婦女界社から刊行された江口きちの歌集。

 

 『武尊の麓(ほたかのふもと)』一巻は如何に多くの人々に讀まれるか豫期されないが、少なくとも三千人の眼に觸れることは間違ひない。その中には眞に本書に讀みついて、手放すことが出來ないと云ふほど、深く同感を有つ讀者も現はれてくるだらうと信ずる。それらの讀者は書物を興味本位に看る人でなく、人生を眞面目に考へて、もし女性ならば女性の立場を正しく守り通さうとする人であらう。或は宿命の克服に悩みながら、涙を呑んで生きてゆかうとする人であらう。そして文藝の事が分り、歌など好きだといふやうな人であらう。元來きち女は樂しみ半分に歌を作るといふやうな肌合でなかつたから、假令感傷をうたつてゐるにしても、面白づくて讀んでみて陶酔感を得ようとしてもそれは得られない。寧ろ息づまるやうな苦しさをさへ感ぜしめる歌集だと思ふ。
 きち女は格別歌道専修に志してゐたのではないから、作品價値の上から言へば、第一流の歌人と肩を比べるわけにゆかないのは勿論だ。小學校を卒業しただけで深い學問もなく只性來文藝の才能に恵まれてゐたので、頓てそれが短歌の形に現はれ、遂に七年足らずの間に千首にあまる收穫を遺したといふことになる。もし短歌にゆかなかつたら或は詩に來たかも知れないし、或は創作を書く人になつたかも知れない。此集に加へなかつたノートの歌を一々讀んでみても、きち女は日々夜々の生活感情を悉く歌にしてしまつてゐる。その點は、啄木に似通つてゐるので、人間の眞實性に基く直感を在りのまの言葉で歌に言ひ放たうとしてゐる趣がある。從つて短歌本來の機構樣式に照してみて、技巧の不備、格調の不自然、語彙の不足等の缺點を免れ得なかつた。それに拘はらず人を動かす力があるのは、きち女の氣魄が歌の形を籍りて眞實われわれに迫つてくるからである。
 きち女の歌には厳しさ、清しさ、寂しさ、正しさ、澄み徹る、しみらなどの言葉が好んで用ひられてあるが、それらの言葉は如賞に彼女自身の性格を反映せしめてある。如何に呪はれたる宿命的な環境に在つても、性來の素質を汚されまいとする潔癖感は、漠然として冒し難い一個獨自の風貌となつて示されてゐる。人生を厳粛に凝視して、軽快浮薄の態度は微塵もなく、絶えず清澄冷徹の心境に身を置かうとしてゐたのだ。さればこそきち女は決して人生を安く見限つてしまつたのではなく、家庭に、生計に、ひしひしと身に迫る重壓を感じ、わが力及ばずと決めて潔く二十六年の生涯を斷ち切つたのである。
 歸省中の妹が上京するのを送るとて「うけつぎし流離の血から故郷へ歸るなかれといひし餞け」といふ歌がある。妹は美容師になる筈で既に幾年かを東京で暮してゐた。姉自身は故郷ならぬ流離の故郷に、土に歸する覚悟はしてみても、妹だけは良き生涯を送つて天壽を全うしてくれるやうにとひたすら祈念する心持、悲痛な叫びであると同時に、此一首に複雑極まる心境が隠されてゐる。その由つて來る處を知らずして卒然一讀すれば、何處が優れた點か分らない歌だが、内容を敷衍すれば一篇の小説になるやうな素材を、矢張り三十一文字に縮めてみるのだ。而も此一首の如き最もよくきち女の手法を代表してゐると云ひ得るだらう。
 氣位高く、潔癖あつただらうけれど、きち女は決して思ひあがつた女ではなかつた。此種の女には得てして人生にわけなき反感を抱き、怨嗟の悲鳴をあげるものだが、彼女の場合に限りそれはなかつた。偶には憤りを洩らして激することもあるが、直ぐ平静を取り戻して肯定すべきものは肯定した。心の底には人知れぬ遺瀨なさはあつたらうが、その爲に昏迷に陥るまいと力強く自制してゐた心持は甚だ憐れに想はれる。視野の狭い山里に住んで、庭にある一本の桐の木にさへ年々美感を新たにして、歌に慰めを得ようとしてゐた女らしい情操、自然に對し、人生に對し、大いなる現實の前には謙遜でもあり慎重でもあつた。假令その窮極は死であつても、自ら血迷ふことなく、終に死の直前に於て「大いなるこの寂けさや天地の時刻あやまたず夜は明けにけり」と來るべき曙光を信じてゐる。寂蓼を寂蓼として傎實に亭け容れるだけで、それ以上悶えず焦らず從容として人生を辭していつたきち女である。
 われわれは徒らに哀悼の辭をつらねることを止めよう。江口きち女の生命は『武尊の館』一巻に遺されてゐる。上毛利根の奧、巌として聳ゆる武尊山の威容は永へにきち女の面影を彷彿せしめるであらう。
(「序/河井醉茗」より)

 


目次

序 河井醉茗
・短歌

  • 昭和七年二十四首
  • 昭和八年三十三首
  • 昭和九年三十首
  • 昭和十年四十二首
  • 昭和十一年九十三首
  • 昭和十二年九十三首
  • 昭和十三年五十二首

・詩及び長歌

  • 秋夜
  • 齟齬
  • いもうとに
  • 初雪
  • ☓☓☓☓入手直前

・日記

  • 昭和十三年六月一日より十一月二十八日まで

後書 島本久惠


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