千田幸夫歌集 千田幸夫

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 1986年12月、短歌新聞社から刊行された千田幸夫の遺稿歌集。


 まだあたたかい夫の遺骨を抱いて茫然と唐湊の火葬場に佇ちつくした日から、私の上に流れ去った十年の歳月の重さを、今あらためて噛みしめる思いでいる。
 共に過ごした二十余年の思い出は何故か四十五年秋、血液透析を始めてからの緊迫した数年間の明けくれに、暗く凝集されてしまったように思われてならない。夫は透析後も次々と症状を変えて襲って来る苦しみに堪えながら、凄まじいまでの生命の炎を燃やして、もう一度教室に帰る事のみを願い続けていた。
 四十七年春、漸く職場に復帰して二年ぶりに国文学研究室の扉を開いた時の、一瞬顔を被った本の匂いを、部屋のたたずまいを、無量の思いで眺めたことと思う。
「あ~やっと帰って来た……」この日の為に戦い続けた二年間――しかもなお明日の自分の運命ははり難い。今日一日の時間はこの上もなく貴重であった。講義の度に「或はこれが最終講義になるかも知れぬ」という覚悟で教場に臨んでいた。
 五十年五月、上代文学会の全国大会が鹿児島大学法文学部で開催された。不自由な体ではあったが、関係の先生方、卒業生のご協力を得て三日間の大会を無事終了した。
「学問の世界こそわが故郷、体調を整えていく仕事をしたい。」と眼を輝かせていた。苦しみ多かった闘病生活の中で、この時の思い出だけが私の心の中にほのぼのと明るい。
 健康に恵まれていた頃の夫は、よく人様のお世話をしていたので来客も多く、帰られた後を深夜まで机に向かっていた。
 服装には無頓着で七高生の蛮カラの名残りを止めていたが、書籍と美しい音楽を聴く為の費用は、魔法の如く何処からともなく湧き出て来て私を不思議がらせた。端然と正座してシューベルトモーツアルトの曲に聴き入っていた後姿が映に浮かぶ。音楽は祈りにも似て病む人の心を慰めてくれたのであろう。
 夫は生涯を通じて大勢の方々から暖かい励ましを頂いた。燃えるあてのない病と知りつつもなお自らの生命の炎をかきたてて生きて行く為に、それはどんなに大きな心の支えとなった事であろうか。「自分は周囲の人々に恵まれて幸だった。」と書き残している。
 この度、生前親しかった友人のご協力の許に、遺された六十余冊の手帖の中から八六七首を選んでここにまとめた。故人と交流のあられた方々の胸に甦ってひとりひとりに生き生きと語りかけてくれる事を私は信じたい。
 この集を編むに当たって最も煩瑣な労を快くお引き受けくださった小山更氏は、故人との短歌と音楽を語るよき友であった。教え子松田三千男氏の膣大な歌稿の筆写は、多忙な小学校教諭としての三回にわたる転勤を通して続けられた。また五年有余の透析の日々を最後の日まで一日も欠かす事なく便りを寄せられ、撰歌並びに心いたむ「個」のお歌をいただいた畏友森重敏教授。校正に当たられた宮ノ下峰博氏は夫の若き頃の教え子の一人である。この方々のご厚情に対し心からお礼を申しあげたい。誠によき友を得て夫の魂は今こそ永遠の安らぎの中に鎮まる事ができよう。
(「あとがき/千田豊子」より)

 

 本集、書名を「千田幸夫歌集」とする。生前、歌集を編む意図のなかった故人には、もとよりその準備とてなかったわけで、ただ幾つかの雑誌などに発表された一千首足らずの歌と数十冊の古い手帖とがのこされた。手帖は宛ら歌日記とよぶにふさわしく、書き記された歌は一万首に近い。これらの歌の中から撰抄して、故人の十年祭を機に、このたびの歌集上梓に至ったものである。
 本集に収めた歌は八六七首。故人の歌の中から、主として発表されたものを中心に撰抄した。所載を詳らかにすると「形成」四〇一首、「形成南苑」一二二首、「熔岩地帯」一○九首、「短歌研究」二六首、その他三四首(内、重複歌三三首)、未発表二〇八首となる。未発表歌が多いのは晩年近くすでに「形成」などへの出詠もかなわず、しかもなお歌に執した故人の、手帖に書き記された夥しい歌の中から、豊子夫人とともに撰松収録した為である。
 本集の為に「個」と題する歌を賜った森重敏氏は、故人とは鹿児島一中、七高の同窓で、以来親交をつづけ、生涯を通じての刎頸の友というべき人である。
 先頃、奈良女子大学を定年退官され現在は天理大学教授。氏には歌の撰抄に際しても多大のお力添えにあずかったことをも記しておきたい。
 本集が世に出るに当って、ともに編纂に携った松田三千男氏には、尼大な手帖の筆写という最も困難な作業をも受け持って貰ったわけで、あらためてその労を多としたい。氏のこの作業がなければ本集の完成はなかった筈である。校正は在京の便もあって宮ノ下峰博氏(都立小山台高校教諭)にお願いした。
 本集の内容については更めて述べるべきことはない。もとより世に問うたぐいの歌集ではない。何人の歌集もそうであるように、この集もその悉くが間然すべからずというわけでも無論ない。ただこの一集に目を通していただけばまさに生命のたたかいを遂げた故人のすがたは偲んでいただけるであろう。読者各位のご清鑑をお願いしてやまない。
(「あとがき/小山更」より)

 

 

目次

  • 杳き日の歌
  • 冬至前後
  • 断章
  • 恩愛抄
  • 幻の如く
  • 修羅の夢
  • 生命いとほし

偲 森重敏
千田幸夫略年譜
あとがき


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