ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像 辻征夫

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 1999年8月、書肆山田から刊行された辻征夫(1939~2000)の短編小説集。装画は横田稔。

 

 清水哲男に電話をかけてたしかめたのだが、詩誌「飾粽」の解散パーティーは一九九二年の五月のことだったらしい。当時の二十代から五十代までの多数の詩人を擁し、最も旺盛な活動を示していたグループの突然の解散だった。解散にいたるいきさつはいろいろあったと思うが、外部の人間には関係のないこと、私は大方は知合いの、大勢の詩人たちにひさしぶりに会えると思って出かけて行った。
 パーティーはいつものごとく、それなりにおもしろかった。私と同じく外部からのゲストだったが、野村喜和夫だと思って話していただれかは野村喜和夫ではなかった。後に野村や城戸朱理と会ったとき、まったくの別人が現れたので驚いた。昔からずっと野村喜和夫だという。
 野村とはどうもうまく行かなくて、九七年暮れに私が用事があってパリに行くとき、向こうで会おうと思って一時帰国中の野村に電話をかけたところ留守で、連絡がないままに私は出かけたが、帰国して留守番電話をきいたらパリでの連絡先はどこだと野村の声が録音されていた。その直前まで私はパリで、パリから一歩も出ずに、モンマルトルやモンパルナスをうろついていたのに。
 閑話休題(あだしごとはさておき)、パーティーはやがて一次会から二次会へと流れて行ったが、そのはざまで私は清水哲男と阿部岩夫にちょっと別の酒場へと誘われた。何かと思ったら三人で詩誌を作らないかという。何だそんなことかと思ったが、それは私にはうれしいことだった。私は長いこと詩を書いて来たが同人誌に誘われたことがなかった。私は一人で、「ユリイカ」や「現代詩手帖」をのぞけば、一般の新聞雑誌だけを詩の発表の舞台として来たのである。それは三十数年変らなかった。それに私は寡作だったから、それで十分だったのである。それがこんどは、自分で費用を出して発表の場を作るらしい。そんなことをしなければ原稿料が入るのにと思ったが、友だちといっしょに何かをするといううれしさの前ではそれは問題にならなかった。私はとっさに、その雑誌には世間が私に注文しないものを書こうと思った。詩はいままでどおりにやり、その原稿料をその雑誌にまわせばいい。私の頭にはすでに私なりの短篇小説のすがたが浮かんでいた。いずれそういうものを書こうと漠然とは考えていたが、突然その機会が思いがけないかたちでやってきたのである。創刊号に私は「ボートを漕ぐもう一人の婦人の肖像」を書いた。(ちなみにその詩誌は「小酒館」といった。清水や阿部と創刊について相談していた飲み屋の割箸の袋に、「小酒館」と書いてあったのである。)
 私はこれを短篇小説のつもりで書いた。二作目も三作目も同じである。さいわいそれらは友人たちの間では好評のようだったが、そのうちに私は妙なことに気がついた。好評なのはいいが、かれらの大半がこれを事実そのままを書いたエッセイだと思っているらしいのである。
 これは私には意外な反応だった。おまけに私は、法螺吹きということになったらしい。私が何かいうと、ちょっと待てよなぞと考えている。たとえば「バートルビ」では、話はいまの友人たちと知り合う前のできごととしてあるのだが、中には十代のときからの友だちもいて、かれらは「知らない知らない、こんな話はきいたこともない」なぞと大声で証言している。だからきみたちとも知り合う前というと、その私はまったくの子供になってしまう。私は改めて文学の虚実について演説しなければならないのだろうか。
 私は五、六篇書いたところで、専門家の意見をきいてみたくなった。これは短篇小説には見えないだろうか。私の頭にまっさきに浮かんだのはO氏だった。小説の方法についてたいへん意識的な作家だと思う。私は小冊子をまとめて送った。何かを書き添えたかどうかは覚えていない。
 数週間たった。送ったことは忘れはしなかったけれど、記憶がだいぶ薄れて来たのは、未知の人ではあるし、忙しそうだし、あまり返事を期待していなかったのだろうと思う。ところがある日、葉書が一枚舞い込んだ。これが本になったら、きっと話題になることでしょうと、簡単だが好意のある言葉が書かれている。署名は、0氏の名前にしては漢字が一字足りないような気がしたが、崩せばこうなるのかもしれない。
 私はとてもはげまされた。これからもいろいろ問題は出て来るとは思うが、最初の一歩はこれでいいと思うよといわれているような気がした。私はいままでどおり好きなように書こうと思った。
 私はその後しばらくして雑誌をやめた。詩の雑誌だからみながだいたい見開き二ページですんでしまうのに、私だけがページをたくさん使っているのである。それでいいと清水はいうのだが、私の中でどうしても短く短くという意識がはたらいてしまう。これは作品を書くうえでマイナスではないかと考えはじめたのである。
 これが、「私が短篇小説を書きはじめた理由」の第一の(あるいは第二の)情景である。第二の(あるいは第一の)情景は四半世紀も時をさかのぼるのだが、それはこの本と前後して新潮社から出ることになっている、もうひとつの短篇集にこそ書くべきことがらである。それは五十数枚から百六十数枚にいたる、本書に収録の九篇よりはるかに長い三つの短篇で構成され、執筆時期は本書に継いでいる。
(「私が短篇小説を書きはじめた理由(わけ)」より)

 

 

目次

  • ボートを漕ぐもう一人の夫人の肖像
  • バートルビ
  • 幼稚園の安達原
  • 透明な地図
  • 越路吹雪
  • 自転車
  • 砂場
  • マフラー
  • 坂道の男


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