1999年8月、新潮社から刊行された辻征夫(1939~2000)の短編小説集。装画は成富小百合。
私の三冊目の詩集「隅田川まで」の初出一覧によると、昭和四十七年(一九七二年)の新潮七月号に、私は詩を書いている。その年は新年号から十二月号まで、毎月だれかが詩を書いたのである。
詩稿はたしかお茶ノ水の喫茶店で渡したと思う。新潮社からは若い編集者が来た。ずっと後にきいたところでは、そのとき新入社員だったという。詩稿を渡してしまうと、彼はいった。辻さん、小説を書いてみませんか。最初は二十枚くらいでいいと思う。書いてみませんか。
その頃も、詩から小説に移行して、活躍している作家は何人かいた。もっとも顕著な例は清岡卓行氏だろう。この著名な詩人は、詩と批評と小説の三角形ということをいっていた。自分はその中で仕事をすると。
だが私には、私にそういうことが出来るとは思えなかった。私は詩でこそ、何か独自なものが出来るとようやく感じはじめていたのである。あまりに思いつめていたせいだろうか、年に二、三篇しか書けなかったけれども。
私はとんでもないと答えた。二十枚なんて、途方もない枚数に思えた。それからそのことを忘れ、四半世紀がたった。
一九九六年に、私は十一冊目の詩集で萩原朔太郎賞を受賞した。朔太郎賞は御承知のごとく、朔太郎の故郷前橋市がやっている。選考結果は新潮に発表され、前橋市では授賞式そのほかのほかに、広瀬川のほとりに詩碑を建てる。
私は呼ばれるままに前日に前橋に着いた。そして翌日授賞式に行くと、そこにかつての新入社員が、新潮の編集長として出席していたのである。彼はいった。辻さん、小説を書いてみませんか。最初は三十枚くらいでいいと思う。
なぜ四半世紀たつと二十枚が三十枚になるのか、これはわからないが、私は三十枚が五十枚になっても、百枚になってもいいものと解釈した。私は書くといった。私は四十年間の、短期決戦の連続のようだった詩とのつきあいに疲れ、私には未経験の、長い、ゆるやかな流れに身を浸したいと思ったのである。それは散文の世界を知らないものの、あわいあこがれだったのかもしれない。そして五ヶ月たって、私は「遠ざかる島」を書きはじめた。
(「後記」より)
目次
- 遠ざかる島
- ぼくたちの(俎板のような)拳銃
- 黒い塀