1960年6月、新日本詩人社から刊行された遠地輝武の第3詩集。装画は山本丘人。
この詩集は、前著『心象詩集』(1955)につづくものである。だいたい一九五四年秋頃からこんにちにいたる作品群の一部で、この期間はちょうどわたしたち一家の斗病生活にあけくれた時期でもあった。わたしは一九五二年におもわぬ肺患でたおれた。それから二年、わたしの病勢がやっと少しおとろえると、こんどは突然亡妻がへ<癌>にたおれ、まるで死刑宣告をうけたような嘆きの日々であった。
そういう生活の途上で、これらの詩をかくことは、わたしにとって唯一の生きる慰めであり、生きるたたかいの源泉でもあった。というわけで、これらの詩篇は、いうならば、病患にあえぐ老詩人の日々の嘆きと焦心の記録であり、ある意味での素朴で人生的な人間生存状況の最低部意識を反映する祈りと訴えではあるが、現代詩の主題や方法と対決する何ほどの意味もない。しかしながら、わたしはそればそれでもいいのではないかと自ら慰め、かねて一冊の刊行を心掛けたが、なかなか都合よく運ばなかった。亡妻の病状が日々悪化し、詩集どころでない事情もあった。また、わたし自身いつも詩集を上梓することにあまり熱心でない不心得もわざわいした。そのうち昨秋10月24日、遂いに斗病五年のながいたたかいに精魂なきはてて終った亡妻とも幽冥席を異にする結果となると、いよいよ詩集の刊行などどうでもよかろうとなげやりな気持であったが、ふとふりかえる手許の既発表、未発表の詩稿もとかく散佚しがちの感じである。このため少し慌てて、この一冊をあんでみた。それだけわたし自身多少元気も回復したわけであろう。
この詩集の標題『癌』は、村田正夫の命名によるものである。はじめ亡妻の生前に刊行を企画し、その頃まだ元気だったかの女は<少し大仰のようだ>など笑ったりしたが、結局、多勢いる癌患者と、その親近者たちの嘆きにおくる意味では、こんな標題もよかろうということにしたが、いま、その妻も在世しない。詩集刊行へのわたしの存意もかわって、いわば亡妻への追悼詩集というものになった。となると、ここ五年来のわたしの生活的主題は殆んど<癌>と<銭>とに要約される感じもあって、詩集の標題も何か別のものにかえてみようかなど考えたが、要するにどう変えてみたからというので大して意味もないことであり、はじめの企画にしたがった。ただ標題の意味ずけもあって、好子詩集から『闘病詩篇』を抜いてここに加えた。たまたま紙型があったからでもある。これらによって<癌>とのたたかいにあけくれたわたしたち二人の感情の側面をあわせてみて貰うのも、無意味ではなかろう。いずれにしても、わたしとしては甚だ情熱のわかぬ詩集の刊行だが、それでいて恐らくこれはわたしの生涯の全燃焼を意味する大事な詩集ということにもなるわけだろう。
なお、末尾ながら、この詩集に山本丘人画伯の挿画をかざり得たことを厚く感謝したい。これらの画は亡妻入院中の病室を飾っていただいたもので、かの女の愛惜やまぬ作品であった。
(「あとがき」より)
目次
序詩 不在
●癌
●銭
- 銭
- 老人
- 手
- 石
- 棺
- 木彫像のように
- うろたえる
- 幻影の人
- 花の散る風情のように
- 風見の菩薩
- 曲り道
- 行雲
- 日々らんる
- 讃歌
- 渇いた日々
- 月夜
- さようなら
- 静かな老年
●木村好子『闘病詩篇』より
- 花束
- 深部治療
- 斗病
- 看護婦さん
- 果物
- 鈴子さんをおもう
- 二〇七号室
- おとずれ
- 出血
- 輸血1
- 輸血2
- 人形
- 死をおもう
- わたしは愛したの
- 友来る
- 武蔵野おもいで
亡妻・木村好子のこと・遠地輝武
あとがき・著者