1986年2月、鳥取文芸協会から刊行された田中古代子(1897~1935)の作品集。編集は富本純一。
ここに田中古代子集が刊行されて、鳥取の地に生んだ才媛女流作家の作品が、六十余年間埋れていた歳月を経て、陽の光を浴びることが出来たことは、先人の活躍を活目させて、近代文学を彩る文学史の上に有意義な営為と思います。
一昨年「古代子五十回忌」に當り、玄忠寺に於て「古代子を偲ぶ会」を催した際に、遺子季々子氏より、母の作品を収集して母の霊にお供えしたいと、強い刊行の要望があり、その意に併せて發行を見たことを喜びます。
田中古代子の三十七年の生涯はあまりにも短かいものでした。それ故に、命が燃え盡きようとして情熱があふれ、激しく生き抜いたのでありましょう。彼女は、新らしい女として社会の注目を浴びましたが、別に新奇を求めたものではなく、自分の道を歩もうとして、因習にとらわれない行動力が奇抜に見られたに過ぎないと思います。
古代子の作品は、殆んど六十余年前の朝日新聞に發表されたものに限られて居り、収集については朝日新聞社に依存の他はなく、その探索に一方ならぬ御配慮をうけました。依って未だ埋れた未知の作品がありますが、現在の収集された作品が相當量になりましたので、刊行の運びと致しました。この道程で、朝日新聞社の御協力に厚く感謝致します。
『煙草』小説は、「北浦みを子」のペンネームで發表されていますが、日本海を「北の浦」と名付けその水脈を「みを」と名付けて、育てられた風土がこめられたものと思います。「諦観」の新聞發表も第一回は北浦みを子で、二回目から本人の希望で田中古代子に変えられています。
朝日新聞縣賞創作入選二位となった『諦観』については、審査後に有島武郎氏がすばらしい作品であると絶賛して、一位の吉屋信子の作品に優るとも劣らないと、涌島氏の所に書状が送られてきています。いかに古代子の作品が若き閨秀作家として期待され、優れていたかを窺わせられます。
編集にあたって、塩谷宗之助氏、山下清三氏の一方ならぬ御協力を戴きましたことは、お礼の言葉がない程であります。
私事になりますが、古代子の家に度々訪れてその度毎に身に沁みて受けた御教示が胸底深く刻みこまれていて、今の私の生きる行動の力となり、生甲斐となって居ります。この収集を刊行して御恩返しの一端とならば幸せと願うものであります。
(「あとがき/富本純一」より)
目次
- 煙草
- 諦観
- 詩
- 詩抄日記ほか
- 随想
- 二種の夢と私の存在ほか
- 残されし花
- 短歌
- 手術を受くるほか
- 俳句
- 佗草紙の中より
田中古代子年譜
あとがき