詩が、追いこされていく  山本哲也

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 1996年11月、西日本新聞社から刊行された山本哲也(1937~2008)の評論集。装幀は毛利一枝。

 

 一九八六年十月のはじめ頃、わたしは鮎川信夫の詩集やら詩論集を読んでいた。日本近代文学会の九州大会で「戦中から戦後へ――個の変容とその諸相」というシンポジュウムが十一月に予定されていて、パネラーの一人として「鮎川信夫」について発表することになっていたからである。鮎川信夫の死は、十月十七日である。シンポジュウムの当日は底冷えのする寒い日で、長崎郊外の、会場となった大学の階段教室のいちばん下でわたしは震えあがっていた。他のパネラーの発表した武田泰淳梅崎春生の作品と交差させて、「戦後文学」の変容へと話が絞られていったとき、奇妙な暗合に気づいたのである。そうか、鮎川信夫の『宿恋行』は、「幻化」だったのか。
 梅崎春生の『幻化』(一九六五年)が梅崎の最後の小説であり、『宿恋行』(一九七八年)が鮎川の生前最後の詩集だから、というのではない。戦後文学や戦後詩といわれるものが、戦争―戦後体験の意識の総体に依拠するものであるとするなら、この、ふたつの作品は、戦後体験を幻として空無化する場所で書かれていたからである。鮎川信夫の詩集『宿恋行』は、その意味で、みずからの死よりも前に、戦後詩の終焉をはらんでいたのである。
 『幻化』の主人公である五郎は、二十年前にたしかにそこにあったものを索めて、坊津の町にやってくる。家がぽつぽつと見え始めたと思うと、その屋根のかなたに海が時がが見え、空に数百羽の鴉が飛び交いながら鳴いている。「冥府。町に足を踏み入れながら、ふっとそんな言葉が浮かんできた」。二十年間もちこたえてきた幽霊じみた生の時間が、そこでは冥府という一語に象徴されるような幻化した場所にしか、その生の根底をもちえなかったことが示されている。

 白い月のえまい淋しく
 すすきの穂が遠くからおいでおいでと手招く
 吹きさらしの露の寝ざめの空耳か
 どこからか砧を打つ音がかすかに聞えてくる
 わたしを呼んでいるにちがいないのだが
 どうしてもその主の姿を尋ねあてることができない
 さまよい疲れて歩いた道の幾千里
 五十年の記憶は闇また闇。

 詩集『宿恋行』で、エピグラム風に置かれた全八行である。これを、ひそかに「戦後詩以後」の準備された詩だというのは、むろん憶断にすぎないが、小説「幻化」において現実の世界が、ゆっくりと反転し、幻化した場所が浮上したように、これは「戦後詩以後」の時間、「戦後詩以後」の場所でつぶやかれた深い吐息のように聞える。『宿恋行』よりも数年前の、自伝的な短篇集『厭世』にあった「想像化された記憶」という仮構性は、もはやここにはない。「記憶」は「闇また闇」なのである。そのかわり、ここにあるのは、「わたしを呼んでいる」声、幻聴である。

「今朝眼が覚めた時、また声にならない声を聞いた。幻聴とまでは行かないが、それに近かった。化けおおせたことが、そんなに嬉しいのか?」(『幻化』)

 「吹きさらしの露の寝ざめの空耳か
  どこからか砧を打つ音がかすかに聞えてくる
  わたしを呼んでいるにちがいないのだが」 (『宿恋行』)

 両者に共通しているのは、戦後文学の理念や戦後詩的規範などいっさいを無効にしてしまうような何かである。その「何か」をどういったらいいのだろう。「わたし」が世界を把握しようというのではない。むこうがわにあるものが、「わたし」を呼んでいる。「わたし」にささやきかけるのである。『幻化』のむこうがわが「冥府」なら、おそらく、『宿恋行』のそれは、戦争体験も戦後体験もつきぬけたむこうがわ、五十年の記憶の底の闇のなかにある「幼年」であろう。
『宿恋行』という詩集の数カ所には「幼年」が埋めこまれている。だが、それは埋めこまれたままで仮構されることはなかった。仮構されているのは、先取りされた「死」である。「必敗者」という詩のなかの「私」は、気がつかないうちに死にたくなっていて、恋人と会ってはどの毒がいいかと話しあったりしている。「私」がたまたま雑誌で読んだシュワルツの短編では、コーネリアスという無名の詩人が登場するが、ここでは「私」とシュワルツとコーネリアスは、「必敗者」の像として重ねられている。

 自殺もせず狂気にも陥らずに
 われわれのコーネリアスはどこまで歩いていけるだろう

 確かにあったものが失われ、いっさいが空無化された場所に、「どこ」という目的地などあるわけがなかった。「幻化」の五郎は、阿蘇の火口壁の頂きを歩いている男を望遠鏡でのぞきながら、まるで自分を見ているような錯覚に陥って思わず叫ぶ。「しっかり歩け。元気を出して歩け!」。この一行の声を反響させて、わたしは「必敗者」を読んでいたのである。わたしたちのコーネリアスはどこまで歩いていけるだろう。しっかり歩け、元気を出して歩け、と。
(「はじめに」より)

 

目次

  • はじめに
  • 夢みる力
  • 現在感覚と永遠感覚
  • 詩人の死
  • 詩への回路
  • 詩の現在
  • 詩が、追いこされていく
  • もう太宰治のように書くわけにはいかない
  • 詩への疑念
  • 過渡を生きるように
  • おぼえがき

人名索引
書名索引

 

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