1978年12月、笠間書院から刊行された坂井信夫(1941~)の第4詩集。表紙は小谷智昭。著者は新京生まれ、刊行時の住所は横浜市港北区篠原町。「あぽりあ」同人。
目次
・サーカス詩篇
・風景詩篇
- 森にて
- 海辺からⅠ
- 海辺からⅡ
- 海辺からⅢ
- 街にて
- 島にて
- 野辺にて
- 路上で
- 筏にて
- 海への独白
1972年4月、津軽書房から刊行された泉谷明(1938~2020)の詩集。カットは泉谷三男。
この本は、今までに出した二冊の詩集、『噴きあげる熱い桃色の鳥』(一九六六年津軽書房)『ぼくら生存のひらひら』(一九六八年津軽書房)を一冊にまとめたものです。
生きて存ることの、あるいは生そのものの矛盾から、自己史を編んできたと思っているのですが、ここでこのような形で刊行されるからといって、何かに決着をつけようなんて大それた覚悟は持ち合せておりません。
これ以上、書く必要がない、のでは勿論なく、その居心地の悪さは、ますます肥大しています。
(「あとがき」より)
目次
・噴きあげる熱い桃色の鳥
・ぼくら生存のひらひら
あとがき
1970年4月、杓田文庫から刊行された堀内豊の詩集。装幀・装画は大野龍夫。刊行時の著者の住所は高知市上町。
目次
あとがき
1980年2月、青葉出版社から刊行された高山擁子の随筆集。
茶道の茶の湯は一度沸騰させた湯に水を差し、少し抑えてから使います。同じ温度でも沸かす途中の湯ではいけないのです。
文章を書くことも、俳句を書くことも同じで、一度は心の中で沸騰をみなければなりません。そして、それを適度に抑えたものでなくてはならないのです。
戦前から俳句に関わっていて、いまだ一冊の句集も持つ気になれないのは、自分の作品がそれに見合ったものであるという自信がないからにすぎません。
俳句とは最も妥協を許さぬ詩型であり、誤魔化しが利きません。文章も同じで、書いたものは自分以上でも以下でもなく全く自分の裸であることの怖さは、とても書き捨てた文章を集めてみる気にはなれない筈でした。その気恥しさにあえて目を瞑ったのは、青葉出版の村上秀男社長と、高田文恵さんの陰の御支援によります。村上氏は私が以前教育委員であった時の教育委員長であり、その頃から何か残しておくようにと言い続けて下さいましたし、まだ若い高田文恵さんは渋る私から未整理の原稿を次々と持ち帰っては、四百字詰の原稿用紙にすべて書き移すという大変な仕事を、面白いからやらせてくれと全部引受けて下さいました。
上梓に当り句集よりも随筆集の方を選んだのは、私がそれだけ俳句作品というものを畏れもし、大切にも思っているゆえであろうかと思います。
折々の随想は、中国新聞、NHKなどの依頼によって書いたものと、俳句関係の雑誌に載せたものの中から拾いました。幼い書きようも、気負った文章も、それなりにその時々の私の真実であろうと思いまして、特に筆を加えることなくそのままにいたしました。
いづれにしろ、私の書きましたものはすべて亡き父に対する、迷いに満ちた信仰告白にすぎません。
(「あとがき」より)
目次
あとがき
1964年2月、青森俳句会から刊行された新谷ひろし(1930~2020)の第1句集。暖鳥文庫5。
青森俳句会機関誌で同人誌の「暖鳥」を編集してからまもなく十年になろうとしている。その間いろんなことがあったことはいうまでせないが、この一月号が二百号であった。恰度そのとき、この小句集が暖鳥文庫の一冊として加えられることになったのはことのほか嬉しい。
ところが、いざ印刷の方からすぐ原稿をおろすよう言われてハタと困った。発表しうる自信作はもともとないのであるが、これほど作品として未完成であり、ひとりよがりで、ふらついている自分の老大な作品ノオトを手にしたとき、ぼくはどの句をえらびどの句を集録すべきかほんとうに思い惑った。しかしぼくはぼくなりの考え方から、作句ノオトまとめておくこともあながちマイナスでないと考えていたので、さきに自家版の掌篇句集としてまとめておいた「鏡の蝶」(昭和22年~25年春までの中学・高校時代の作品集。昭和33年4月刊)と「美貌妻」(昭和33年9月~12月までの句日記四八○余句収録。昭和34年4月刊)の作品は除外することにし、さらにあざみ同人俳句集「青芦」第一集、第二集(各五十句)および森の会アンソロジー「雪像」「修羅おとし」「氷塔」(各五十句)に収められている句なども一応除いて、ここに五七八句をえらんでみた。
ところで、現在のぼくは過去の作品を追うているべきではないし、この句集のような作品では結局余技でなかったかと自覚せざるを得ない。
第一、ぼくは余技というその態度については否定しないし、ぼく自信それを楽しみたいと思うときもある。また現に楽しんでいる筈だからぼくの俳句は余技ということになる。しかし余技は余技でも芸は下手では困る。その点でぼくの余技は芸の域に達していない。その理由ははっきりしている。すなわち、ぼくは観念では俳句は文学だと思いながら、文学の何たるかを知らず、俳句の文学たる所以も知らず、ただ俳句なるものを作り、その作る場合は、ぼくの息ぬき(カタルシスという言葉もあるらしいが)と心得て作っているにすぎない。そうした矛盾が余技の道をも究め得ない理由である。今後、ぼくに課せられた問題はそうした生半可な態度を徹底的に破壊することにある。
ぼくは非常に安易な古くさい考え方だが「文学は一人でするもの」という信念をもっている。俳句の歴史を見るとそれは逆行した考え方かも知れない。俳句には運座という楽しい雰囲気の大衆の世界があり、また連句という俳句本来の野放図な明るさのあった時代も経てきている。しかし、それでもぼくは文学は孤独でなければ駄目だという考えを近年ますます強くしている。将来の自分については予測できないが、現在のぼくは孤独に徹するなど到底できないし、それに系累も多い。円満な家庭づくりの方がいまのぼくに課せられた俳句づくりより重い仕事だという考え方もある。よって、いま、この小句集をまとめたことはぼくの俳句生活にとっては記念すべきことになるかも知れない。
以上、後記ならぬ後記になったが、これまで永らくお世話になった多くの先達および同友の方々にこの機会にさらに一層の御指導御鞭撻をおねがいしたく思うし、さらにこの小句集のために、わざわざ序文をお寄せいただいたあざみ主宰の河野南畦先生、句集の刊行を強力に推進して下さった吹田孤蓬先生、身に余る解説で新谷ひろしを解剖してくれた成田千空氏ならびに本句集はもちろんのこと、いつも暖鳥の表紙を飾ってくれている小野忠明先生に厚く御礼申しあげたい。
(「著者後記」より)
目次
序 河野南畦
解説 成田千空
著者後記
関連リンク
新谷ひろし - 青森県立図書館