1977年9月、VAN書房から刊行された佐々木道子の第2詩集。VANシリーズ41。表紙カットは梶谷修弘。刊行時の著者の住所は松江市。
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”詩集・小さな日常から” 伴勇
これからも 佐々木道子
1980年3月、JCA出版から刊行された向井孝(1920~2003)による山鹿泰治の評伝。
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一 はじめに
二 エスペラントとの出合い(一九〇七~一一)
三 アナキズムとの出合い(一九一一~一三)
四 中国のアナキズム運動(一九一三~一四)
五 大杉を助けて(一九一四~一七)
六 二度の上海行(一九二二~二三)
七 関東大震災前後(一九二三~二四)
八 闘いの日々(一九二四~二七)
九 小金井時代(一九二七~三九)
一〇 台湾とフィリッピン(一九三九~四五)
思い出 山鹿みか
父のこと 瀬川アイノ
おわりに 向井孝
<付>山鹿泰治年譜
1959年4月、実業之日本社から刊行された早川雪洲(1886~1973)のエッセイ集。表紙カバーは稲村直明。
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1966年12月、竹頭社から刊行された田中民蔵の遺稿集。編者は田中豊。
父は晩年になり学生時代より長年親んできた俳句作りに精を出していたばかりか、青春時代若いエネルギーを注ぎ込んでいた小説を整理、一冊の小説集にまとめ上げる事を何よりの楽ーとし、また宿願ともしておりましたので、その原稿も当時の雑誌「文章世界」「黒耀」あるい「独立樹」等から抜粋し、既に転記も終って、あとは印刷するだけというところで、本当に雨様に逝って了いました。
明治末期、父は田山花袋、前田晁、中村武羅夫、水守亀之助諸氏等と盛んに文章活動を続け田山花袋氏の主宰する雑誌「文章世界」に投稿、あるいは「独立樹」という個人雑誌を発行す等、文筆を業とする事にかなりの自信を持っていたようで後年「現代のように文章さえ書けばれて行く時代に生きて見たかった」と口癖のように言っておりました。
大正四年十月、「文章世界」に発表した、「後悔先に立つ」という一篇は、父自身満足の出来。快心の作品であり、また田山花袋氏に認められた傑作の一つとして、特に此の小説集の標題にる事をかなり前から決めていたようです。
すでに出版した二つの俳句集「喫々集」と「松の瘤」は長い間の俳句生活の集積とすれば、此の「後悔先に立つ」は短い期間ではあったけれど、父自身の人生の最も気力充実していたもののあらわれかと思います。
(「あとがき/田中豊」より)
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著者略歴
あとがき 田中豊
1963年、手套社から刊行されたアンソロジー詩集。編集責任は永田義夫、佐藤経雄、平林平八郎、小林しゅう。
戦后の廃墟のなかで詩誌,手套"に集まった5人はひとりを失って4人になった。
そして、心だけをつないで十五年の才月を過ごしてきた。
たまたま一堂に会した4人が、いままでうたい、つぶやいて来た骨を拾い集めることを思いついた。
骨はしらじらしい。ばらばらの骨は正確に過去を語ってくれない。 つなぎ合わせた骨は人間の姿に復元しない。 けれども私たち4人はこれでいゝのだとうなずき合っている。 次に発行する”続、4人”、でこの骨に肉付けするつもりだ。奇怪な生きものでもよい。土の上をのっしのっしと歩かせてみたい。
(「あとがき/永田義夫」より)
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・佐藤経雄
・平林平八郎
・小林しゅう
・永田義夫
あとがき