1984年7月、十一月舎から刊行された清水鱗造(1950~)の第2詩集。著者は静岡県田方郡生まれ、刊行時の住所は世田谷区弦巻。
目次
- 床屋横町
- 白蟻電車
- かたまり
- 渦群
- 麟翅目
- 密室
- 白子の肖像
- のど
- 下水の顔
1981年5月、野火の会から刊行された小西たか子(1937~)の第1詩集。装幀は高田敏子、装画は前田和佳子。野火叢書89。著者は姫路市生まれ、刊行時の住所は姫路市。
小西たか子さんは、「野火」に入られて十余年になられ、作品や休みなく書きつづけて来られました。
それは「熱心に書きつづけて来られた」というのとも少し違って、それ以上の、小西さんの心のよりどころ、『詩にすがる心』とでもいうものではないかと、私には思われるのです。
何がそのような心を小西さんに持たせたか、まで、立入ることは出来ないのですが、関西での会合の度にお会いする小西さんの、私を見つめる目に、私は小西さんにとっての詩の大切さ、つきつめた心を感じるのです。
小西さんは、地味な方、言葉少なの方なのですが、口ごもりながら私を見っめて、二言、三言いわれることばの中に、「どうしたらもっと、詩の中に自分をこめることが出来るのか」と、早くその方法を知りたいもどかしさをこめていられるのでした。
それに対して私は十分なお答えも出来なかったのですが、野仏を主題に書くことを思いつかれたことから、その道は開かれて、小西さんの心の位置も鮮やかに描き出されるようになりました。
「石仏」からはじまる十篇の連作、その一篇一篇を読み進むことで、母への思慕、生の確認、小西さんの、さびしさ、優しさ、誠実さを見ることが出来ます。
そして、-白い森』の章に納められた「八号室」「母の逝った日」「ひとり詣で」とつづく作品で、石仏に結ばれた小西さんの心が一層にわかるのです。
小西さんとの今日までのおつき合いを思い、『野のまわり』としてまとめられた、心細やかな見事な作品の一篇一篇を、私はうれしい思いで拝見しました。|
(「序/高田敏子」より)
目次
序 高田敏子
・野のまわり
・白い萩
あとがき
1953年2月、東光書院から刊行された三浦関造(1883~1960)によるヨガ解説本。三浦は大正時代からのオカルティスト。
目次
1981年8月、櫓人出版会(ねじめ正一)から刊行された倉尾勉(1950~2002)の第2詩集。装幀は秋山法子。付録栞は、青木はるみ、阿部岩夫、鈴木志郎康。著者は和歌山県辺路町生まれ、刊行時の住所は八王子市。
ある日、私はいま住んでいる東京都下、八王子の周辺を歩きながら、宅地造成地の一画に立っていた。山は削られ、かって、林野だった土地は区画整理され、ニュータウンとして売りに出される。それは当然のように自然の生態系を変え、草むらを死滅させ、あとに、何紀もの地層をはじめて露出させた崖を残していた。
私が生まれ育った南紀の山村はすでに崩壊し、その後、移り住んだ街もはげしく変貌しつつある。かって、それがあった場所は別のものになりかわり、街の変貌は東京に住みはじめて十数年たった私の変貌をはるかにしのいでいた。
私もまた、変貌を耐え、生き延びていくひとつの生でありたい。七六年に前詩集「草分けの家」を出したあと、詩からはなれるように書けない状態が続いた。それは七〇年代後半の解体され尽くした状況ほどに、苦しく、私にはあったようである。だが、しばらくすると、詩からひきもどされるように、また書きはじめていた。この詩集にみえる、草への関心は前詩集以来続いている。それは私が生育した南紀の山村農民の子の眼に映った草であり、現在、私が棲息する街の草でもあり、どこかの地面で発芽を準備している種子の未来でもある。その草の原形質にあるものの生命の輝きともいうべき内質を、生きるようにやわらかく、私の現実の生活にある生きさまとして描いてみたかった。
また、この詩集の背景には、かって、私が卒業した日本文学学校に、創作科、鈴木志郎康氏の組会のサブチューター(助手)として、再び通うことになったことがあり、それが、自身の詩を考えなおすあらたな契機となった。それはいまも続いている。この詩集の大半の作品はそのひとつの過程として、組会から生まれた。
その過程にかかわって、この詩集のしおりで書いてくださった鈴木志郎康さん、阿部岩夫さん、青木はるみさん、本書を刊行してくれた組会の仲間である櫓人出版会のねじめ正一さん、山崎ヒロ子さん、装幀の秋山法子さん、本書の刊行を支援してくださったかたがたに謝意をおくります。
(「あとがき」より)
目次
Ⅰ 郊外
Ⅱ 夢の家
Ⅲ 河原で
あとがき