1995年6月、ミッドナイト・プレスから刊行された山本かずこの詩集。装幀は永畑風人。
あれは、ヒツザンでしょう。わたしは母にたずねる。そうよ、あれはヒツザンよ。筆の山と書いて。ヒ・ツ・ザ・ンと読むのよ。
母は文字を知らない子供に向かって、いちから教えるような教え方をした。だから、わたしもまた、子供のように大きく頷いた。
わたしたちは、その筆山から川を隔てた場所に建っている、リバーサイド・ホテルの一室に、部屋をとって泊まっている。
後になってわかることだけれど、母はこの年の十二月二日に死んでしまうのだった。けれど、そうとは知らないで、死はまだ先のことだという感じで、のんびりとホテルに泊まっている。知らないからこそ、のんびりと川の流れを見て、山を見て、今年も楊梅(やまもも)の季節ね、と言いながら、部屋まで運んでもらった食膳の楊梅を目で愛でたりもできたのだろう。(母は、子供の頃にはよく食べたものよ、と言いながらも、それを食べずにわたしにすすめた。楊梅を、わたしがあんまり美味しそうに食べたからだ)
母はこの街で生まれて、この街で育った。そして、この街で死んでしまう。
ところで、筆山にラブ・ホテルが多いということを知ったのは、もちろん大人になってからのことだった。母親も、知っているのに違いないのに、その山の読み方を教えたきりで、余計なことは一切言わない。しかも、わたしがかつて「筆山ホテル」という詩を書いていることを知らないはずはないのだけれど。
その日は七月の終わりだった。
ホテルの庭にはビア・ホールが開設されていた。それが五階の部屋の窓から見渡せた。(「もうひとつの『リバーサイド・ホテル』――『あとがき』にかえて」より)
目次
- 故郷
- だんらん
- ルール
- 横浜ナンバー
- 酒井のおばさん
- (Mの夢)
- 弥生町1-24
- 海の色
- 夏の光り
- 別離
- 中橋商店
- (夢のなかで)
- (Mと会った日)
- 化粧
- 海のポー
- ボーイ
- 「港」というホテル
もうひとつの「リバーサイドーホテル」――「あとがき」にかえて