牀上小唱 根市良三

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 1969年5月、津軽書房から刊行された根市良三(1914~1947)の遺稿集。根市は太宰治「思ひ出」私家本装画(1933)も手がけている。

 

 亡き兄良三は私より二歳半上の次兄である。大正三年から昭和二十二年まで三十三年余りの短かい生涯であったが、その間熄むことなく努力を積み重ねて己れの才能を磨き上げ絵にヽ詩文に数々の作品を遺したことを思えば、短かいなりに一応の完成を見たものと思われる。たゞ夭折した人によくあることだけれどもその成熟の早さと燃焼度の高さだけは異例かもしれない。
 幼年時代に病んだ小児麻痺のため左足は不自由であったが他は筋骨たくましく五尺六寸にあまる長身であった。大股で潤歩し足には自信のあった私などより松葉杖をつきながらもむしろ早いくらいであった。脚が悪くなかったら立派な運動選手になっていたかもしれない。
 小学校時代から既に詩文を発表し、関野準一郎氏編の年譜大正十年の項に記載されている手書き、さし絵入りの回覧誌は私も見た記憶があり、また童謡誌「角笛」にもたびたび掲載された。
 絵の亊については年譜その他に詳しいから私は省く。
 年齢差が少なかったから幼年時代、少年時代、さらに在京時代にも一緒に生活した期間が長かったが、およそ怒声罵声の如きものを聞いたことがない。まして他人に対してはなお一層穏良であったことと思う。しかし気性は人一倍激しく負けず嫌いだったことはたしかである。
 二人とも二十歳前後のころ銀座通りを歩きながらしみじみと話したことを、つい昨日のことの様に思い出す。
「向こうから歩いて来る人が俺の顔をまっすぐ見ていてくれるとほっとするよ。けれども殊に女の人が近づいて来るに従って、ひょいと眼を下に落として脚を見られると何ともつらいな」と。自分の脚のことでは随分気をつかい、また他の人のことにも常に気を配っているのがよくわかって、傍にいる私までつらい思いをしたことがしばしばあった。女の大には殊の外やさしかったし、よく思われていた。酒も強く酒席でもその帰りでも乱れた姿は見たことがない。私の見たただ一度の乱れは私の出征の送別の宴の時だけである。この日の日記には末尾に「帰路負傷」とのみしか書いていないが、実はその帰り玄関で俥にのりかけたさい、足をふみはずして転び脛をすりむいたのである。めったにないことなので、私は心配して俥の供をして歩いて帰ったがずいぶん酔っていたのだろう。翌朝、そのころ愛読していた乃木将軍の日記から引用して「泥酔酩酊帰路を覚えず」と何度もくやしそうにくり返しながら、痛みを苦笑にまぎらわしていたのを思い出す。
 私の手もとには兄の昭和十五年元旦から亡くなる年の二十二年一月十八日までの一日も欠かさぬ克明な日記があり、日付を確かめるために探したところ、昭和十九年四月十七日で、その頁には十四日付で私が在京の兄宛打った「臨時召集にて二十日五十七部隊に入る。帰れるか」の電文が色あせてはさまれてあり、さらに五月七日には「晴。朝弘前に行き誠の壮途につくを駅前に送る。門門一切境」とあった。さらに続いて七月一日の第一信から翌二十年八月一日の第五十信に至るまで、殆んど毎週満洲にいた私宛に手紙を書いてくれている。私には確かその四十二信まで届いたと記憶しているが、その発信は二十年五月一日で、その日の末尾に「痔腫」となっていて、そのころから既に病んでいたことがわかる。第四十三信以後は入手出来なかったが、入手したものゝ中には便箋二十枚以上表裏のものもあった。シベリヤ抑留中も大切に持っていたが、度重なる所持品検査でいつか没収され私の手を離れた。残念なことである。(「あとがき/根市誠三」より)

 

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あとがき 根市誠三

 

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