伊藤整詩集 光文社

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 1954年11月、光文社から刊行された伊藤整(1905~1969)の詩集。装幀は岡本芳雄。

 

 ここに集めた私の詩は、次のやうな形で發表されたものである。
 詩集「雲明りの路」一九二六年十二月一日、椎の木吐發行。
          一九五二年六月十五日、木馬社再刊。
「雪明りの路」の中の作品は、私が數へ年で十六歳、即ち一九二〇年から後、一九二六年の夏までのものであり、その内若干は、小樽高等商業學校の「校友會誌」、私と川崎昇君とで出してゐた雜誌「青空」、河原直一郎君と私とで出した雜誌「信天翁」、百田宗治氏の雜誌、第一次「椎の木」等に發表されたが、大部分は、初めてこの詩集で印刷されたものである。木馬社よりの再刊は東博君の好意と配慮による。
 詩集「冬夜」 一九三七年六月二十五日、インテリゲンチヤ社發行。
        一九四七年六月一日、細川書店再刊。
「冬夜」の詩篇は、大部分が、前記の「椎の木」に發表され、「田園故郷を失ふ」といふのだけが、一九二八年十一月の、私と阪本越郎君等で出してゐた第二次「椎の木」に發表されてゐる。この作品までの作風は、「詩集以後」としてここにまとめたものの作風とちがっで、「雪明りの路」の系統のものであったので、別にして集めておいたのを、九年後の一九三七年に、岩波健一君の手で、インテリゲンチャ社から出したものである。戰後細川書店よりの再刊は岡本芳雄君の配慮による。なほこの詩集の裝幀も同君の手を煩はした。
「詩集以後」といふ題でまとめられたものは、一九二八年の年末から翌年にかけて、第二次「椎の木」その他に發表されたものであり、私の記憶では、一九三〇年六月に「詩・現賞」に書いたのが、私の詩作時代の終りであったと思ふ。
 また「鳴海仙吉の詩」は、一九四八年の三月、「改造文藝」を編輯してゐた中村恭次郎君に言はれて、その雜誌に書いたものである。それまでの十八年間、私は詩を書かなかったと記憶してゐる。この詩は小説「鳴海仙吉」には入れられてゐない。またそれ以後私に詩作はない。
 木馬社版の「雪明りの路」に、私は「雪明りの路」の成立した前後の自分の環境や箴書や受けた影響について「あとがき」を書いたので、それを次に再録することとした。


 私の詩集「雪明りの路」を出した頃のことを思ひ出の形で書いても、徒らに自己を語るものと言はれる危險はもうないだらう。その時から二十年あまりの歳月が經ち、私は「詩人」ではなくなっだのだから。
 小樽中學の三年生の頃、私は隣村から汽車で通學してゐるあひだに、營時五年生だった鈴木重道さんと親しくした。鈴木さんは私に「藤村詩集」を讀ませた。そして私は詩にとりつかれた。それは大正九年頃のことである。鈴木さんはその頃から北見恂吉の筆名で次第に短歌に專念したので、私は藤村以外の詩人を一人で讀みあさるやうになった。街の新本屋や古本屋で、蒲原有明の「有明集」とか、高村光太郎の「道程」とか、横瀬夜雨の「二十八宿」とか、伊良子清内の「孔雀船」とか、佐藤惣之助の「正義の兜」とか、三木露風の「露風集」とか、白秋の「思ひ出」とかを買ひ集めた。また東京の越山堂といふ出版屋に注文して生田春月編の「日本近代名詩集」といふのを買って愛讀したりした。それ等に續いて私は千家元磨の「私は見た」、福士幸次郎の「展望」、室生犀星の「室生犀星詩集」、萩原朔太郎の「月に吠える」を手に入れいづれも愛讀した。大正十年に新潮壯から雜誌「日本詩人」が發行された。私はその創刊號からの熱心な讀者であった。それと同じ頃に玄文社といふ出版社から、大藤次郎の編輯した「詩聖」といふ雜誌が出た。これは長谷川巳之吉氏が出版者だったから、その後の第一書房のことであらう。またアルスから北原白秋編輯で「近代風景」といふ詩歌雜誌が出たのもその時代である。それに少し遲れて「抒情詩」、「詩神」等の雜誌も出た。後の二誌は短命であったが、「日本詩人」は大正の末年まで五年間續刊され、私は白い表紙に横書きで「日本詩人」と書いたその雜誌をよく讀んだ。この雜誌は詩話會といふ會の機關雜誌でそのメンバアが主に執筆した。即ち川路柳虹佐藤惣之助、白鳥省吾、福士幸次郎室生犀星、百田宗治、萩原朔太郎等であった。
 その作品の質から言って、この雜誌を舞臺として最も活躍したのは萩原朔太郎佐藤惣之助であつたらう。萩原朔太郎は最初の詩集「月に吠える」を出して五六年沈默した後、この新雜誌を舞臺にして、後に「青猫」にまとめたあの妖しい物憂げな柔軟な詩作品を次次に發表し、そのためにこの雜誌は重きをなしたと言つてよかつた。また佐藤惣之助はその處女詩集「正義の兜」の激しいホイットマン型又は白樺風のヒューマニズムから變化して、この時期にはロマンチックな華麗でデリケートな詩風に轉じ「琉球風物詩」の連作のやうなそれまでの日本近代詩に見られなかつた形式の佳作を發表し、その最活動期に當つてゐた。その外高村光太郎や百田宗治や千家元麿や福士幸次郎の新作にもこの雜誌で接したし、山内義雄や犀東日路士などのすぐれた譚詩にも多くの忘れがたいものがあつた。それ等の諸作家、特に感動して讀んだ萩原朔太郎の影響を十六七歳であつた私はかなりに受けたに違ひない。しかし私は特定の詩人の詩風を深く追ふことをしなかつた。私は幼いなりに頑固な性質であつたから、他人の影響の痕跡が自分の作品に殘ることを嫌つた。私が最も氣をつけて、本がこはれるまで繰り返して讀んだのは、前記の生田春月編の「日本近代名詩集」である。この詩華集は明治期と大正期の二部に分けて、日本近代詩の佳作を、かなりよい選擇眼で集めた内容の豐かな小詩集だつた。この類の詩華集では最善のものだつたと、私は今も考へてゐる。私は六號二段組のその小型詩集を絶えず持ち歩いて讀み、特定の詩人や詩型にとらはれず、日本語による詩なるものを一貫して貫く本質を、その中に含められた多くの詩の比較と味讀によつて把握しようと努力した。
 當時は詩書がかなりよく出版された時であつて、詩の飜譯も多く出た。たとへば明治時代の有名な尾上柴舟譯の「ハイネ詩集」などは見ることができなかったけれども、大正の末年、第一書房から、上田敏の「海潮音」が新版で再刊され、明治大正時代の詩に最大の影響を及ぼしたといふこの名譯詩集に接することができるやうになつた。またこの頃、新潮社から四六半裁といふ小型本で生田春月譯の「ハイネ詩集」と「ゲエテ詩集」、川路柳虹譯の「ヴェルレエヌ詩集」、白鳥省吾譯の「ホイツトマン詩集」等が出て、かなり行はれた。荷風の譯詩集「珊瑚集」と鴎外の「於母影」とは、私は昭和期に入るまで讀む機會がなかつた。私に一番大きな影響を與へたのは、「海潮音」と「日本近代名詩集」についで、大正の末頃たしか十四年頃に出た堀口大學の尨大な譯詩集「月下の一群」であつたらう。
 近代フランスの詩のエッセンスとも言ふべきこの譯詩集は、私のみでなく昭和期の新詩人たちにどれほど大きな影響を與へたか分らない。「於母影」が明治の詩の源泉であれば「海潮音」と「珊瑚槃」は大正の詩を生んだ母胎であり、「月下の一群」は昭和の詩の大きな源泉をなしたと言つていいであろう。大正十二年に鈴木さんは伊勢の學校へ行つたから、私はほとんど孤獨で熱心にこれ等のものを讀みあさり、また自分の作品のノートをいくつも作つて持ってゐた。
 大正十四年に、私は滿十七歳で中學校を卒業して、小樽の高等商業學校(今の小樽商科大學)に入った。この頃、私は川崎昇君と通學列車で親しくなったが、同君も短歌を作つてゐた。鈴木、川崎兩氏の影響で私は「萬葉集略解」をかなり讀み、また茂吉、白秋、牧水等の短歌を讀み、影響を受けたところがあると思ふ。この學校は小林象三、濱林生之助といふやうな英文學の優秀な教師がゐたし、また經濟學の方にも大熊信行のやうな短歌作澣で後に評論家になった若い教授もゐた。かなり自由思想の盛だった當時でも、特に自由な校風の學校であり、その圖書館には、自然主義系作家、白樺系作家の外、當時の新しい小説作家であつた芥川龍之介室生犀星菊池寛等の新著が殆んど揃つてゐたから、私は圖書館に入りびたつて、それらの散文作家にも親しむやうになった。また英語が段々役に立つたやうになつたので、イギリスの詩では、アーサア・シモンズやイェーツやデ・ラ・メアなど二十世紀のものを讀み、その後、當時の新詩風だつたイマジストの群れ、アミイ・ロウエルやフレッチャーやオールティントン等を搜し讀んだ。特に私はイェーツの「蘆間の風」等初期の詩集を一番自分に近いもののやうに思つて圖書館で筆寫したりした。十八九世紀の英詩人、ブレークやワーズワースやシェレイやキーツやテニスンには當時の私は入つて行けなかつた。それは「海潮音」や「月下の一群」でそれ等の詩人の次の世代の發想法に慣れてしまつた私には、折角出來かけてゐた自己を抹殺するやうなことだつたからであったらう。この學校でフランス語を學んだので、私はドラグラーヴ版の「アントロジイ・フランセ・コンタンポラン」といふ三册本のフランス詩華集を取り寄せ、その中のいくつかが「海潮音」と「月下の一群」に譯出されてゐるのを頼りに、このアントロジイを讀み出した。當時持つてゐた多くの詩集は失はれたが、このアントロジイと「日本近代名詩集」とは、今なほ手もとに殘つてゐる。
 以上のやうなものが私の詩の養ひになった書物だが、私は詩のことでは指導者がなかつたので、自分が本當に理解でき、かつ納得するものしか受け容れようとしなかった。私に對しては名聲ある作家とか權威ある作家といふ定評が意味をなさなかつた。私は二十歳頃までに戀愛の經驗は持つてゐたが、生活の環境は比較的平安で、異常な體驗とか見聞を持つてゐたわけでなかつたから、さういふ自分の生活意識からはみ出した、異常なもの、分裂的なもの、常時現れはじめてゐたヨーロッパ第一次戰後のモダニズムであつたダダイスムやキユビスム的なものを受け入れることができなかった。私の生活體驗は、それだけでも大事件であった戀愛の體驗と、その土地の自然の激しい變化と、その自然の中で行はれる田舍の都市と村の素朴な日常生活とに限られてゐた。そして私は私流にその生活に對して忠實であり、それと戰ひ、それを吸收し、作品の中に消化して育つたのである。私はこのやうに孤立してゐたため、比較的に早く、一種の純粹な自分の世界を作品の中で結晶させることができたやうに思ふ。私の詩の書き方は、着想を、どこででもすぐノートに取つておいて、それを何週間か何ヶ月か放つておき、その内容が心から離れてしまつた頃に取出して詩形にまとめ、それを更に長い問かかって少しづつ訂正する、といふやり方であった。發表といふことを全く考へなかったので出來る方法であつた。
 滿二十歳になった大正十四年春、私はその學校を卒業して、小樽の市立中學校の英語教員になつた。その翌年の夏頃、それまでの詩作品を集め、その中からかなり多くの分量を棄て、殘つたものをこの詩集にまとめ、友人の新井豐太郎氏の父君が印刷業をしてゐたので、そこで組版し、その年の末に自費で發行した。ちようどこの詩集が出來上る頃、「日本詩人」が廢刊になり、その雜誌の有力な同人であった百田宗治氏が單獨で雜誌「椎の木」を發行するといふ案内が「日本詩人」に出てゐたので、氏に手紙を出して同人に加へて頂いた。その雜誌は滿一年で廢刊になったが、私はそこで三好達治丸山薫、坂本越郎、乾直惠等の諸氏と一緒になり、上京してからこの人々と交はるやうになった。そのほかに、昭和二年頃私は小樽で川崎昇、河原直一郎君等と「信天翁」といふ同人雜誌を作つてゐた。私の詩集は名目だけ「椎の木」社發行といふことにしてもらつた。私のこの詩集と前後して宮澤賢治の「春と修羅」、草野心平の「蛙」が世に出たことを記憶してゐる。私の詩集に對しては、小野十三郎が「若草」で長い批評を書いた外に、服部嘉香、三好達治丸山薫、中村恭次郎等の人々が批評をした。
 昭和三年の春、私は前年からそこに學籍を持つてゐた東京商科大旱に學ぶために上京した。その頃は、思想的にはアナキズムマルキシズムが盛になり、文學形式の上では新感覺派やダダイスムやスュル・レアリスム等のモダニズムが起つて、激しい混亂期であつた。さういふ時代思潮への關心と、初めての東京での生活が、それまでの北國の自然や素朴な生活から完全に私を切り離してしまつた。そのために、私は次第に詩を書かなくなった。一面では、田舍での孤獨な生活の中であまり完全に自分自身を閉ぢこめてゐた繭のやうなこれ等の作品の世界を自ら破りたくもなつたのである。そして私は次第に散文の仕事の方へ移つて行き、小説や文學評論を書くやうになつた。この詩集のあと、即ち滿二十一歳の夏頃から、二十四歳頃までの作品集「冬夜」は、その後ノートのまま放棄してあつたが、昭和十二年岩波健一君の手で、インテリゲンチヤ社から出し、戰後細川書店から新版を出した。私は後に散文作家になつたが、年が經つにつれて、これ等二册の詩集を、ある意味では自分の全作品の中で一番大切なものと考へるやうになった。私はこれ等の若い時代の仕事を汚したくない氣持もあつて、その後詩を書けと言はれることがあっても羞恥の念と誇りとの混ざつた奇妙な衝動から、もう詩は書くまいと思つて應じなかった。一人の作家にとって、それぞれ重要ないくつかの時期はあるのだが、その人自らが形成される過程をなしてゐる初期の仕事は、やつぱり一番重要なもののやうである。私は十六七歳から二十歳ぐらいの間、これ等の作品を創り出す心の働きを通して、外部に接し、創作の世界の秩序によつて自分を保護し、自分を我見し、かっ作ったのである。これらの作品の基礎の上に私のそれから後のものが築かれ組み立てられてゐることは否定できない。
 私自身の原型のやうなものであるこの詩集が、いま東博氏等の好意で二度目に世に出るに當つて、私はいまだに完全には消えない少しの羞恥の念と少しの誇りとの混ざつた妙な落ちつきなさが心に湧くのを感ずる。しかし二十年以前のこの年少の私が、それにふさはしい友を世に新しく見出すことを祈つて、改めて私はこの年少の自分を祝福しておかうと思ふ。
 近年一ニ度この詩集再刊の話があつて、私はここに書いたのと似た「あとがき」を書いて支度したのだが、それ等の企ては行されなかつた。いま稿を新にして「あとがき」を書き、ここに附した。
(「あとがき」より)

 
目次

  • 雪明りの路
  • 冬夜
  • 詩集以後
  • 鳴海仙吉の詩

あとがき

 

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