1994年4月、編集工房ノアから刊行された玉置保巳(1929~1997)のエッセイ集。題字は玉置貞子。
短篇集『リプラールの春』を出してから、はや五年の月日が流れた。このたびのエッセイ集には、私にとって大切な詩人だちとの出会いと別れ、ささやかな日々の生活に幸福をもたらしてくれた小さな生き物たちのこと、詩論らしきもの若干と、少年時代の思い出などを収録した。
巻頭の「小鳥のいる部屋」は、丸山薫先生の追悼文として「アルファ」五十一号(一九七六年)に発表した小文であるが、丸山夫人は今もご健在で、四季折々に、お便りをいただいている。
ある年のお便りの中に次のようなことが書かれていた。
――子供のいない私どもは、あの頃、あなたがたのことを我が子のような思いで眺めていました。いつも気がかりで、何となく、不愍がかかるようで……今でも、あなた方は、さほどはかばかしく大人になったとは思えませんけれど――。私には思い当ることが数々あり、思わず、目頭が熱くなった。
「トルーデさんの家」の黒部節子さんと、「ぼくが生きるに必要なもの」の板倉鞆音氏は、私が生涯に出会った大切な二人の詩人である。板倉鞆音氏はリングルナッツ訳詩集『運河の岸辺』によって令名高いドイツ文学者であるが、私が昭和三十六年に愛知大学に赴任して間もない頃、回覧雑誌をやらないか、と提案され、当時、名古屋大学にいた京大、大学院時代の友人の本郷義武、内藤道雄両君も加わって数名で詩や散文を書きはじめた。この自筆原稿の回覧雑誌は、板倉氏が「疎林」と命名され、その中に発表した私の作品の幾つかは、後に詩集『青い灝気』(思潮社)に収録した。
「春の光」は、この「疎林」に本郷義武君が発表した「忘れな草」についての覚え書きである。彼はドイツ表現主義についての研究の半ばに僅か四十歳の若さで夭折した。
天野忠氏をテーマにした「ゲーテの頭」を書き終えたのは、平成四年夏の終り頃であった。しかし私は「ゲーテの頭」を、このエッセイ集に収録することをためらっていた。
天野さんは、その頃、気力を回復して、詩やエッセイを書き始めて居られたから、このような回想めいたものを発表するのは、ふさわしいことではないと思ったからであった。
平成五年十月二十八日夕刻に、天野さんは急逝された。病名は急性腎不全だが、多臓器不全の状態であったらしい。天野さんの死は、私には不意打ちの感があった。いつお訪ねしても、矍鑠(かくしゃく)として、当意即妙のジョークをとばされ、いささかも衰えを感じさせなかったからである。今となっては、この拙(つた)ないエッセイ集を天野さんに見ていただくすべもない。巻末の「邯鄲の夢」は、私の少年時代の思い出を書きつづったものだが、その冒頭に、祖父、玉置酉久(とりひさ)のことを書いておいた。郷土史家、仲原清氏の亡くなった今となっては、私以外に祖父のことを書く者は居ないだろうと思つたからである。ところが最近分かったことだが、祖父、酉久のことを書こうとした人が、もう一人いた。それは『日本人とユダヤ人』の著者として名高いイザヤ・ベンダサンこと、山本七平氏である。
七平氏は、最晩年の著書である『静かなる細き声』(PHP研究所)の中で、祖父、酉久のことを少し書きかけたまま、平成三年に死去された。
七平氏は、生前、祖父、酉久を初代クリスチャン、七平氏の父、文之助を二代目クリスチャンと位置づけ、七平氏自身は、三代目のクリスチャンをもって自任しておられた。
ちなみに、山本家と酉久の生家の大石家は姻戚関係にあり、七平氏の父、文之助氏と酉久は、いとこ同志であり、従って、七平氏と私の父は、またいとこにあたる。(「あとがき」より)
目次
――ゲーテの頭
――詩によせて
- 一篇の詩によせて
- 映像の詩人
- 鎮魂の詩人
――邯鄲の夢
- 帰郷
- 城のある町
- 石垣の上の家
- 邯鄲の夢
あとがき
初出一覧