絶望の天使たち 松永伍一

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 1974年1月、芸術生活社から刊行された松永伍一の評論集。装幀は大島哲似。

 

 六年前に『荘厳なる詩祭』という本を出した。天折した詩人たちの「詩と人間の関係性」を追求しようと試みたものであった。山小屋にこもって書きあげる日常のたたかいを、いまふりかえってみると、からだのどこかに鈍い痛みがもどってくるような、つらいおもいを抱かされてしまうことになる。「詩と人間の関係性」を、そのとき無名の、影の詩史の担い手たちの中に見出そうとしてきたが、その後篇ともいうべきものをいずれ書かないと、自分の論理が定まらないとおもっていた。
『芸術生活』の黒沢靖夫君から、一年間連載しそれを一冊にまとめたいという申し入れを受けたとき、私はかれとの因縁浅からぬ関係にあまえて、この『絶望の天使たち』をやりたいと言って承諾してもらった。机で書くのでなく、足を使って人間を描き出すという作業であるから、「詩と人間の関係性」というねらいにとどまらず、「存在と情念の関係性」を現場に行って問う方向へ自分を駆りたてねばならなかった。そして取材協力者としての河谷竜彦君が私を鋭く刺激してくれた。印象ぶかい旅ができた。
 芸術家は栄光を求めながら、なおかつ悲惨につきまとわされる運命を背負い、その予感のなかで表現したら、怒ったり、嘆いたり、沈んだりしていく。他人ごとではなく自分もまた似たりよったりの人生を送らねばならぬと想定してみるから、ここで採りあげた芸術家たちの生と死は近しいものとならざるを得ない。「おれには関係がないよ」とおもえば、書かなくてもよいはずである。関係があるかもしれない、ありそうだ、きっとあると想像してみるから、対象をこちらに引きつけて、批判をしたり愚痴ったりすることが自戒になって生き返ってくることにもなる。これはつらい営みに属していた。こんな対象を選ばず、有名すぎる人物を文学論や評伝の形にすれば本も売れるだろうが、私は、相変らずそのやり方をしなかった。これはまた、人物論の範疇に入らないかもしれない。私の中で発酵した仮説の披瀝であり、倒錯した私小説と言ってもいいとおもったりしている。
(「あとがき」より)


目次

  • 田中稲城と勝野ふじ子
  • 閔根正二
  • 岡本宮子と大藤治郎
  • 後藤謙太郎
  • 細井和喜藏
  • 松倉米吉
  • 野村吉战
  • 尾崎放战
  • 柳原白蓮
  • 野口寧斎
  • 奧居頼子
  • 藤村操と清水澄

あとがき


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