緒方隆士小説集 原田種夫編

f:id:bookface:20180311232346j:plainf:id:bookface:20180311232351j:plain

 1974年2月、梓書院(『緒方隆士小説集』刊行会=福田秀美代表)から刊行された緒方隆士(1905~1938)の短篇集。編者は原田種夫。カバーは中村直美。「虹と鎖」「島での七日」は第3回芥川賞候補作品。

 

 ずっと前に書いた「三つの死」という拙文のうちの緒方の項の中に、次の一節がある。
「彼は浅黒い、頬のちょっとこけた顔をしてい、片方の頬骨のあたりがいつも汚れている感じだったが、それはそこにある薄い斑点のためだった。長いまつ毛の下の眼は澄んで、するどく光ってい た。(中略)
 多分そういう育ちから来ているのだろう、ときどきチラッとするどく人の顔をうかがうクセがあった。と言って卑屈なのではなく、むしろ絹介なところがあった。書くものは、今まで同人雑誌などやっていないのに、感性的にすぐれたものがあり、文章もキレイであった。そうしてなかなかの自信家でもあった。激し易くてズバズバものを言ったりするところは九州男児でもあり、詩人風でもあった」
 今これに対して特に訂正を加える必要も覚えないが、自負が強かったことに関連して次のことを思い出した。彼と私が新宿駅の歩廊を階段へ向って歩いているとき、階段の下の地下道を歩いている群集のあいだに、ふと丈のひときわぬきんでた力士の姿が現われ、と、彼はいきなり甲高く叫ぶように言った。「オホウ! あれだけはっきり差がついていちゃあどうにもならんだろう(認めまいとしても認めないでいられない意)」
 彼は私より五つ六つ年下で、もちろん二十代の時のことで、青年客気の語には違いないが、何とも若さにあふれていたことが思われる。
 のちに緒方は大方の賞讃を受けた、哀切華麗な「島での七日」を発表して、その自負の虚でないことを示したが、惜しいことにその時はもう胸に病巣をたくわえる身になっていた。病いはその後衰えたかにも見えたが、じっさいはひそかに進行していたのであり、やがて彼は入院した。その入院前後に発表されたように記憶するが、「虹と鎖」が昭和十一年下半期第三回芥川賞の候補作品になった。 候補作品は筆者の「城外」を含め八篇。だが彼の作品は候補になっただけに終った。
 皮肉なことに受賞したのは筆者の作品(および鶴田知也の「コシャマイン記」)であり、だが、受賞の知らせを受けた直後に次のようなことがあった。
 文芸春秋社の社長室へ出頭した筆者に会ったのは菊池寛に代る佐々木茂索であったが、佐々木は私の顔を見るといきなり、
「ぼくはあんたの受賞にはハンタイなんでした」と言い、つづいて、緒方の作品そのものを褒めたわけではなかったが、「あんたよりは結方君のほうが、いい筆を持っていると思いました」と言った。
「いい筆」とはいわば「いい文章の筋」であり、たとえ受賞からはずれたにしてもこれは緒方の大きな強味であった。けれどもいかんせん緒方の病勢はつのるばかりで、その後緒方は「文芸春秋」「新潮」に一度ずつ作品を発表する機会にめぐまれたが、病床に呻吟し乍ら書いたものではあり、作品が大きく花開くには至らなかった。すべて病魔のなせる業であり、そしてそれはやがて彼の命をうばった。
 病魔の力は実際上このように大きかったが、もっと本質的には「緒方氏を不幸にしたものは、緒方氏の作家である。緒方氏自身の作家精神である。たくましい一流の作家精神である」と太宰治の言ったのが真実である。
(「序にかえて 小田獄夫」より)


目次

序にかえて 小田獄夫
序にかえて 中谷孝雄

  • 短篇
  • 回想
  • 花開く夢
  • 島での七日
  • 虹と鎖
  • 体験
  • 若年の記録
  • 雁の門

緒方隆士に関する断片 原田種夫
年譜 緒方宏子
作品目録 五十嵐康夫
研究文献目録 五十嵐康夫
編纂覚え書 編者


関連リンク
緒方氏を殺した者(太宰治)

 

NDLで検索
Amazonで検索
日本の古本屋で検索
ヤフオクで検索